なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第3章【2】(9)自動車修理も数少なく 語り部:高橋喜久雄(大正7年生)  

語り部:高橋喜久雄(大正7年生)

語り部:高橋喜久雄(大正7年生)

 小学校6年の頃、新宿から引っ越して来て以来70年余り鍋横に住んでいます。近くに開校(昭和3年)したばかりの本郷小学校があり、近辺は窪地だったので葦が生えていました。家は少し高台にあり、辺りは一面原っぱで数軒の家が点在しているという感じでした。

 父親が自動車修理工場を営んでいて、青梅街道に馬車が通っていた頃ですから、同業者は新宿から吉祥寺の間にうちを含めて2・3軒しか無かったと思います。

 修理と言っても車の数が少ないから衝突事故などほとんど無く、まあ車軸が折れたとかエンジンの故障くらいですか。現場で直すか、工場に持ち込む場合はトラックにロープで牽引してきていました。鍋横で乗用車があったのは現在NTT社宅(本町5-28)になっている有島邸くらいでしたね。

 私は、父親の仕事をてつだっていたので余りこの近くで遊んだ記憶はありませんが、6歳下の弟は夏になるとよく神田川沿いにあった中野プールに行っていました。

 5銭もらってお釣りで駄菓子を買うのが楽しみと言っていたから、入場料は2銭くらいだったのでしょうか。

 

第3章【2】(8)質屋の利用も気楽に 語り部:石川 久子(大正4年生)

語り部:石川 久子(大正4年生)

語り部:石川 久子(大正4年生)

 生後まもなくから、ずっと鍋横に住んでいます。父が質屋を営んでおり、子どもの頃、暮れになると正月用の着物を出しに来る人が多かったですよ。

 包んであった和紙をたたむのを妹と競争で手伝いました。大晦日は特に忙しく、午前2時まで店を開けてましたね。預かった品物は、10円以上は2階、10円以下は1階に保管してました。

 昭和30年、父が亡くなり私が店を継ぐことになりました。昭和49年まで何とか続けてくることができましたが、お客さんが来るたびにドキドキしたものです。

 着物はまだいいのですが、時計等は見ても分からず、「今、主人が留守で・・・」などとごまかしました。

 

廃業した現在も当時の蔵は残されています。 蔵の側面の通風孔はその扉の厚さからも頑丈さが伺えます。

廃業した現在も当時の蔵は残されています。 蔵の側面の通風孔はその扉の厚さからも頑丈さが伺えます。

 一度、金の指輪型印鑑を6,000円で預かったら、後で500円くらいの価値だと分かって大損しました。質屋というと、何か行きにくい所と思うかもしれませんが、当時、学生や近くの人でも、その日の飲み代のためなど気楽に利用していたんですよ。

 鍋横にも質屋がたくさんありましたが、今は少なくなりましたね。

第3章【2】(7)芝居小屋 語り部:長谷川まつ江(大正6年生)

語り部:長谷川まつ江(大正6年生)

語り部:長谷川まつ江(大正6年生)

 昭和25年に現住所に越してきました。周囲は原っぱで、家の前(本町4-19)に芝居小屋がありました。古いけれど立派な建物で、舞台も大きく2階にも客席がありました。

 主人の妹が日舞の師匠をしていたので芝居がない時は、小屋を借りておさらい会を開いたりしました。娘が8歳の時(昭和26年)そこで踊りました。楽屋も広く大きな鏡が、珍しかったですね。

 芝居は半月ごとの上演で、次から次へと旅役者の一座が興行していました。娯楽の少ない時代だったので、客席はいつも一杯でしたよ。夢中になっている人は毎日通って、おひねりを投げたりしていました。

 役者さんは、家族で芝居小屋に寝泊りして、近所の風呂屋にも通っていたようです。確か昭和35年ごろまであったでしょうか。

 その頃、「ひかりや」という食堂を始めました。夏はかき氷、冬はおでんと簡単なものですが、役者さんが食べに来たり、ごひいき筋が「役者さんに差し入れて」と、利用してくれました。

 特に思い出にあるのは夏に浴衣姿で縁台に腰掛け、かき氷を食べている役者さんの姿ですね。

 

第3章【2】(6)鍋横市場とせんべい屋さん 語り部:百瀬徳蔵(大正14年生)

語り部:百瀬徳蔵(大正14年生)

語り部:百瀬徳蔵(大正14年生)

 鍋横市場は現在の鍋横交差点先の「しおのビル」と、その横の駐車場(本町4-1)のところに、昭和40年代までありました。この辺りは戦災を免れたので、戦前からある古い建物でしたね。

 ひとつの大きな建物の中に、八百屋、肉屋、魚屋、佃煮屋、荒物屋、乾物屋など12軒の店が入っていて2階にそれぞれの家族が住んでいました。

 私はその隣で、昭和24年から平成2年まで手焼きせんべい屋を営んでいました。手焼きと言っても、網の上で1枚1枚焼くのではなく、網と網の間にはさんで釜で焼くんです。燃料には備長炭を使ってました。

鍋横市場とせんべい屋さん

鍋横市場とせんべい屋さん

 うちも商売していて忙しかったし、この地域に、まだスーパーマーケットなどない時代だったので、鍋横市場は毎日のように利用していました。日常の買い物のほとんどがここで間に合って、とても助かりました。

 昭和37年頃まで、鍋横市場の中に井戸があって近所の人がよく水を汲みにきていました。当時は水道が引かれてなかったので、市場の井戸をみんなで使っていましたよ。

 

第3章【2】(5)美容室のお正月風景 語り部:大極幸子(昭和11年生)

語り部:大極幸子(昭和11年生)

語り部:大極幸子(昭和11年生)

 昭和39年から、美容室を始めました。当時鍋横に美容室は2,3軒しかありませんでしたが、今はずいぶん増えてきましたね。皆さんが美容室を利用するのも時代とともに変わり、特に髪型やお正月を迎える様子は今とだいぶ違っていました。

 昭和30年代頃は新日本髪が流行っていて桃割れや二十歳から結婚までの女性は結綿ゆいわたと髪型も幾通りかありましたが、今ではそのような髪形をする人も少なくなりました。

 以前はお正月というと、暮れのうちに髪を整えて新年を迎える人が多く、大晦日から三が日の午前中はセットや着付けのお客様で、それはそれは忙しかったですね。今では、着物を着る方も少なくなり、パーマの普及もあって自分で手軽にセットできるので暮れの忙しい中、美容室に行くことも減ってきたのでしょうか。

参考髪型

参考髪型

 美容師の私たちもお正月は食事どころではなく、用意しておいたおにぎり等を立って食べるほどで、お正月気分を味わうのは七草の頃になってからでした。

 でもその後には、すぐに成人式が来ますので1月は忙しい月でしたね。それでも美しく着付けを済ませたお客様がうれしそうに氷川神社明治神宮等に初詣に出かける華やいだ姿を見ると、私たちの疲れもとれ、やりがいがありました。

第3章【2】(4)印刷ひとすじ 語り部:西田惣一郎(大正6年生)

語り部:西田惣一郎(大正6年生)

語り部:西田惣一郎(大正6年生)

 通称、字鍋屋横丁と言われていた西町1番地(現本町4-38)に生まれ、昭和5年に学校を卒業して本町通り3丁目(現本町3-31)にあった印刷所で働くようになりました。

 この頃鍋横交差点そのば日替わりメニューで評判の洋食屋(平成9年発行『見たい聞きたい記録したい』参照)のメニューの印刷をまかされていました。

 当時としては珍しい○○ド・サラダとかロブスター等西洋風の書き方で新しい感じがしたのを覚えています。コック長が大変厳しい人で、そばを通ると「あぶないからどけ!」とよく言われましたが、通ううちに可愛いがられるようになりました。

 鍋横交差点には手信号があり、怖そうな警官が操作していたのをよく見かけましたが、その警官と軍隊で出会ったときはびっくりしました。

 昭和29年に独立して印刷屋を始めました。印刷業に関って60年余年、昔は活字を拾っての印刷でしたが、今はコンピューター処理されるようになり、ずいぶん楽になりました。

 

第3章【2】(3)四つ目垣根に囲まれた植木場 語り部:小川仲子(大正6年生)

語り部:小川仲子(大正6年生)

語り部:小川仲子(大正6年生)

 実家は、この地で関東大震災・戦争を無事にくぐり抜け、父が昭和33年に亡くなるまで植木屋をやっていました。西町花の公園の前一帯(現本町4-3)に植木場(育成畑)があり、周囲は四つ目垣根で囲まれバラの花が咲き乱れていました。

 植木場の中には、名古屋や兵庫県の産地で買い付けた松やモミジ、もっこくなどの樹木が植えられ、槙のつやのある葉がキラキラ光っていたのが心に残っています。

 樹木が産地から貨車で中野駅に届くと、トラックで取りに行き、一時畑に植えておき、その後得意先に届けていました。

 

四目垣

四目垣

 また、ダリヤ、百日草、小菊などの花も作っていて、母が朝霧の中、切り取り、ご近所に分けていました。花屋さんの少ない時代ですから喜ばれていたようです。

 暮れになると土室(温室)の中でお正月用の寄せ植えの鉢作りをします。梅の古木に福寿草、笹、松を植え込み、苔をつけます。

 父に「苔を持っておいで」と言われ弟と一緒に畑の端のほうから持っていったりしてよく手伝いました。ある時、土室の隅の蜂の巣をうっかりさわってしまい、頭や手を刺され、大泣きした痛い思い出もあります。