なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第4章【6】(3)子どもの頃の思い出 語り部:秋山 清(大正10年生)

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語り部:秋山 清(大正10年生)

 家族みんな鳥が好きで、孔雀をはじめ、きんけい鳥・おしどり・はっかん水鳥・ふくろう等と何種類も育てていました。

 餌を賄うのが大変で、神田川近辺の田んぼで取ったイナゴは孔雀に、生垣のクモは小鳥にと餌とりに追われたものです。休日にはかごを持ち薮鶯やぶうぐいすを取りに大宮八幡に出かけました。わなを仕掛けて葉っぱで鶯の鳴き声を吹くと、薮鶯が近寄ってきてかかりまし。藪鶯も家の鶯と一緒に飼うと、いい声で「ホーホケキョ」と鳴くようになりました。沢山の小鳥を孵化しては欲しい人にあげたりしました。

 今と違い、神田川の水はきれいで魚が豊富にいました。瓶どう(魚を取る道具)を仕掛けるとフナ・タナゴ・エビがかかりました。また、米上げざるで魚を追い込むとコイやウナギまでもが取れたものです。

 他にもベーゴマ・ケン玉・転車台・梅屋敷などでよく遊びました。雪の日などは竹を焼いてスキー板をつくり十貫坂で滑ったことを懐かしく思います。

 中野坂上まで見渡しの良い原っぱが続きオウト(大きなバッタ)を取ったりしました。現在の電話局は昭和初期に建てられたもので、近辺には青物市場や、みそ・しょうゆ・製粉などの製造会社がありました。中野館や城西館といった映画館もあり、鍋横を囲む辺りは区の中心地だったのです。

 

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第4章【6】(2)遊びの宝庫 本郷田んぼ 語り部:味岡常春(大正13年生)

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語り部味岡常春(大正13年生)

 私の生まれた大正13年当時、この地は東京府豊多摩郡中野大字本郷といい、昭和5年には東京市中野区宮里町に変わりました。まだ木の香も残る中野本郷小学校に入学した頃でした。

 当時、学校にプールがなく、神田川善福寺川の合流点にあった中野プールかブース病院近くの温水プールに通ったものです。日々の遊び場といえば本郷田んぼです。家に帰るやいなや、かばんを放り出しては出かけ、小川で魚やどじょう取り、稲田でイナゴや銀ヤンマ捕りをしました。春には一面レンゲ畑で女の子が花輪作りをしていましたね。大人が「ブーンブーン」と唸り凧の大きいのを空高く揚げていて、うらやましく見ていたのを覚えています。田んぼの南側は雑木林でセミやカブトやクワガタを取り、富士高の下の神田川の引き込みではイカダを浮かべ「ターザンごっこ」をしました。麻袋と竹の挟み棒を持った蛇取りが「坊や、マムシを見つけたら3銭あげるよ」と言って袋の中のヘビを見せてくれたりしました。とにかく本郷田んぼでは遊びに事欠くことなく、夢中になって遊んでいました。

 昭和20年の空襲では、この近辺も一面の焼け野原となり新宿まで一望できました。八重桜の大木2本は我が家の火伏せとなり燃えてしまいましたが、区の保護樹木である樹齢100年以上のシイの木は現存しており、今もこの辺りの移り変わりを見つめ続けています。

 

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第4章【6】(1)神田川の友禅流し 語り部:渡邉保彦(昭和9年生)

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語り部:渡邉保彦(昭和9年生)

 家業は染物屋で青山に居りました。付近の川が汚染されて使用できなくなったので、祖父と父が清流を求めて適地を探し、私が5歳の昭和14年に現在の二中前の神田川畔に転居してきました。当時は、まだ家の周りは原っぱでした。川面に渡しを設けて、一反を二つ折りにした5メートルほどの長さのものを10反ぐらい川に流して手作業で反物のノリ落としをしました。一般にこれを友禅流しと言います。関東では友禅という言葉を使わず、江戸小紋という言い方をします。最盛期には同業者が、15軒くらいおりました。

 戦時中は仕事も減り、父も徴用になりましたので休業しました。戦後は絹物でなく、軍用毛布を赤や黒に染める仕事もし、その後、友禅流しも復活しました。昭和36年頃になると川に油が流れてくるようになり、水元作業(水を使用する工程)はすべて井戸水に切り替えて、川での作業はなくなりました。子どもの頃は、家から川に降りられたので、よく友達との川遊びに夢中になっていました。戦時中の焼け跡にあった焼夷弾筒などを川に沈めておいて鰻も沢山獲りました。もちろん全部、天然物ですよ。

 

 

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第4章【5】(4)入園に長蛇の列 語り部:安藤容子(昭和10年生)

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語り部:安藤容子(昭和10年生)

 昭和37年頃から嫁ぎ先の幼稚園で、幼児教育に携わっています。当時は園児が300人以上もいました。驚いたのは、入園願書の受付日のことでした。朝、薄暗いうちから外がなにやら騒々しいので窓を開けてみたら、園の前から青梅街道まで80mくらいの行列ができていたんですよ。園児が多かった時代には庭にプレハブを建てて、教室として使ったこともありました。子供たちには狭い思いをさせてしまいました。今も昔も子供は砂遊びが大好きで、おだんご作りやごっこ遊びを楽しんでいます。周りはすっかりアスファルト路面になりましたが、園庭には土や草花があり、園児たちはだんご虫・蝶・てんとう虫や小鳥などの小さな自然ともふれあっています。

 鍋横も外国の方が多く住むようになって、その子供たちも通ってきています。私は言葉が通じずに苦労することもありますが、子供たちは身振り手振りで上手にコミュニケーションをとっていますね。時には通訳係りになってくれることもあり、子供には助けられます。

 

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第4章【5】(3)西町天神社 語り部:戸上 信(大正11年生) 

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語り部:戸上 信(大正11年生)

 私が西町天神社の裏隣に住み始めたのは昭和25年です。戦後間もない頃で、まだ空地が目立っており、杉並との地境には溝もありました。当時の天神社は大銀杏やカヤの木が生い茂り、昼も薄暗い感じでした。昭和30年代の地下鉄工事の影響も受けず、境内の井戸は涸れることなく現在も使用されています。

 天神社は、農民が五穀豊穣、家内安全の祈願のために、「水神の弁財天、豊穣・保食の稲荷神」をお祭りしたのが初めらしく、いつ建立されたかは境内の樹木に頼るしかありませんが、ほぼ400~500年前と推定されているようです。古老から聞いた話ですが、信心の篤い人が戦地で被弾しても助かったとか、天神社や大銀杏を売ろうとした人には祟があったということです。

 樹齢500年を超えると云われる大銀杏が昭和54年の20号台風で根株ごと倒れたことがありました。隣のカヤの古木に当たって杉並の駐車場側にそれましたが、まともに社側にきたら我が家も共に被害を受けたところです。原因は境内防火用水工事で木根を痛めたためと云われています。この大銀杏は躯幹の大部分を切断する蘇生術が効を奏し、秋になると銀杏拾いの人たちの姿を見かけるまでになりました。

 

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第4章【5】(2)西町天神の国旗掲揚台

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 鳥居の前、右側にある国旗の掲揚台には裏側に子爵土屋正直筆と刻まれています。これは第二皇子(現常陸宮殿下)の誕生記念に建立されたとあります。

 土屋子爵は元土浦藩主で大正天皇のご学友でもあり、屋敷は大正末期から昭和10年代半ばまで現中央西公園(中央5-27)にありました。

 

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水車小屋の印がある地図

 

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