なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第4章【7】(4)仕事は盗んで覚えろ! 語り部:北原 久(昭和8年生)

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語り部:北原 久(昭和8年生)

14歳の時、大工の丁稚奉公に行きました。つらい修行で、朝は4時起きで薪を使い飯炊き、片付け掃除と続きます。特につらいのは冬の雑巾がけです。水の冷たさといったら窓の桟を拭くと後が氷になる位でしたから。その後、大八車に材木を積み現場に行きます。

 登り坂で「あ、軽くなった」と思うと知らない人が押してくれている。人情がありましたね。帰りは残った切れ端を積みます。これが風呂焚き等の燃料になるんです。仕事は教えてもらうより自分で盗んで覚えろという世界でした。小遣い30円、休みは毎月1日、15日、正月とお盆のみです。7年間の年季奉公を終え昭和28年に手間取り(一人前)になり、数人で工務店から家を建てる手間受け仕事がもらえるようになりました。
 家を建てるのに30位の下職があり、とび職、こまい屋、瓦屋、経師屋、目立て屋等鍋横にもたくさんありましたが、今はほとんど無くなりました。

 

今はあまり目にしない大工道具

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ちょうな

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墨つぼ

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第4章【7】(3)十貫坂上のむかし 語り部:中村銀司(大正13年生)

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語り部:中村銀司(大正13年生)

 私の父が、十貫坂上の現在地に酒屋を構えたのは大正7年頃でした。当時は原っぱが多く、家の前は三金広場と呼ばれ8歳上の兄たちの遊び場たったようです。前の道路も2間半の砂利道で、坂下の安田邸に皇族方が馬車でみえる時はその都度、砂利敷きをして手入れをしていたそうです。

 関東大震災後、多くの商店が建ち並び、料理屋、カフェーもあり、鍋横通りも十貫坂上まで賑わってきました。通りにはバスも通っていましたが、2台が行き交う時が大変で商店の軒下まで車体が入ってきました。この道路も昭和11年頃には拡幅されました。また、坂上から北へ、現中野通りは狭い路地でしたが、私か昭和21年に復員した時には広々と拡幅されていて驚きました。

 子どもの頃の遊び場は、なんといっても本郷田んぼです。1年中遊ぶことには事欠きませんでした。また、行楽は大宮八幡でした。ボート池、釣堀、プール等があり、花見時などは、棒にムシロを巻きつけ、その中に飲食物を巻き込んで担いで出かけたものです。

 

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第4章【7】(2)梟(ふくろう)や鶴のいるまち 語り部:池田幸惠(大正8年生)

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語り部:池田幸惠(大正8年生)

 昭和4年、10歳の時に父を亡くし、母と弟の3人で牛込から越してきました。周りは木々や竹が生い茂り、夜はとても寂しいものでしたが、その林の中に梟を見つけ、弟とはしゃいだこともありました。今の二中の辺りには私たちが「鶴の家」と呼んでいたお宅があり、家に居ながらにしてはっきりと鳴き声が聞こえましたよ。ご近所の離れに尺八の福田蘭堂先生が住んでいらして、時々大勢のお客様の賑やかな声が夜遅くまで聞こえました。

 榎本武揚さんのお屋敷は現在の富士見ハイムのところにあり、久留米絣の凛々しい若様のお姿をお見かけしたこともありました。

 池や築山がある大きなお庭をお持ちでしたので昭和20年の空襲のときには近所の方々とそこへ避難しました。大木の根元へ母を座らせ、すぐ駆け戻り家を守りました。風向きが変わり焼夷弾の落下位置がずれたお陰で命拾いをしました。

 小学校は桃園第四小(現中野神明小)へ通っていました。寿橋は本の橋で晴れた日には富士山が見えました。また中野通りは、でこぼこ道で切り通しの寂しい所もありました。それでも一人で通うことができたのは、いつも身につけていたお気に入りの赤いビロードの手提げと黒革の編み上げ靴のお陰だと思っています。

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第4章【7】(1)地図から甦る思い出 語り部:秋元 雅之助(大正12年生) 

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語り部:秋元 雅之助(大正12年生) 

私は大正12年関東大震災の年に生まれました。当家裏の岸上には、ドイツ語の先生だった權田邸(現鍋横保育園)、株屋・占い師たった茂木邸(現鍋横地域センター)、尺八演奏家の福田蘭童が一時期寄宿していた中村邸がありました。

 当時の神田川流域は田んぼと湿地帯で、寿橋は木製だったために、台風や大雨の際にはよく流出しました。昭和8年に護岸の構築とともにコンクリート橋に架け替えられると、以降は水害にあっても橋が流されることはなくなりました。

 また、現在の地下鉄車庫付近から富士高の台地にかけては田んぼと雑木林で、夏は蛍や小魚を夢中になって取ったものです。今は面影もなくなりましたが、氷川神社や十貫坂上の小道は樹木が茂って:いて夜には怖くて一人歩きは出来ない路でした。

 今年、開校80周年を迎える中野本郷小学校ですが、私は8期生でした。当時は木造校舎で、冬になるとダルマストーブを使っていたのが懐かしく思い出され、卒業以来70年近く経ったのだなと感慨深いものがあります。

 

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第4章【7】(扉)地域センターの辺り

第4章【7】(扉)地域センターの辺り

  1. 地図から甦る思い出
  2. 梟や鶴のいるまち
  3. 十貫坂上のむかし
  4.  仕事は盗んで覚えろ!

 

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第4章【6】(4)情緒ある中野新橋 語り部:大野コマ(大正1年生)

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語り部:大野コマ(大正1年生)

 今も住んでいるこの中野新橋で、昭和28年から平成5年まで小料理屋を営んでいました。お店を始めた当時、この付近は三業地でした。三業地というのはね、芸者置屋・待合・料理屋の3つの業種が寄り集まっている地域のことをいうのですよ。ですからこの辺りにも黒塀で囲まれた料亭が何軒もありました。

 お三味線の音が絶えず、夜になると雪洞ぼんぼりの灯やお座敷に通う芸者衆の姿が見え、それは情緒のある街並だったのですよ。私の店では、満席になると常連のお客さんが作った縁台を表に出して宴会を始めるということが、ままありました。するとそこを通りかかった芸者衆がお酌などをしてくのでとても賑やかになりました。昔のことですからね、ギスギスした人もあまりいませんでした。近くに警察の寮があり、地方出身の方も多くいらっしゃいましたので、結婚式に親御さんが来られないときには、私か親代わりになって出席するということも度々ありました。昭和の初期から繁栄した中野新橋三業地も、昭和33年頃から徐々にその影が薄くなってゆきました。

 神田川の氾濫には苦労しましたよ。ひどいときにはお店のカウンターの高さまで水が入ってきたことがあります。現在は新橋から下流が拡幅されたので床上まで浸水することはなくなりました。

 

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