2019-01-28から1日間の記事一覧
一年中花をつけています 花海棠 紫陽花 くちなし 桜 柳 筍 木蓮 桜
葉が末広がりに出てきます
金色の小さな鳥の形して
鍋横地域には、中野区の中でも緑の少ないところです。しかし、手入れの行き届いた庭木、マンションのベランダに置いてある鉢植え、家の前のちょっとした空間に植えてある草花など工夫して育てられた緑も目にとまります。 中でもたくさんの花を咲かせるひとき…
杉並区と境を接する位置にあり、もともとこの神社は境界を守護するという性格をもっていたと考えられます。 ここには水神弁財天豊穣保食の稲荷神が共に合祀されています。 社の入り口にある大いちょう(公孫樹※)は、地上5mくらいから上がありません。江戸…
屋敷内にある赤い鳥居の稲荷は、病気がちの息子のために建立したものです。 山形県に疎開中、当時2歳の息子のからだが弱く、高名な医者に診せようかと近所の人に相談したところ、「昔はこのあたりに稲荷があったので、それを祀っておはらいをした方がよい」…
妙法寺とは縁が深い稲荷宮で、五穀(米・麦・粟・きび・豆)やあらゆる食物、蚕桑を司る神である農業神を祀ってあるそうです。 名前の由来は、旧中野区本町通り5丁目2番地9(5丁目29番地)の地番にあった時期、その地番をそのまま「五・二・九」いわゆる「ゴ…
明治の実業家で北海道開拓事業に携わった杉山裁吉氏が娘の病気療養のため、自然環境豊かなこの地に居を構えましたが、療養のかいなく25歳で亡くなりました。 その後、夫人も逝去され、それを機に邸宅を寄付することにし、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立…
本社は、貞享4年(1687年)に京橋区南鍛治町にありました。それは、日本橋南之絵図・八丁堀・霊岸島文久3年(1863年)亥年再刻に記載されています。 当家の先代によって明治40年に京橋からこの地に勧請されました。戦前は誰でもお参りできるようになっていま…
当院は、初め慈眼堂橋(堀越学園そば)の西方に位置していましたが、江戸時代に現在地に移りました。境内左手にある氷川堂には、大変慈悲深く「生き仏」と慕われた僧・覚順※1を祀ってあります。 金色のパコタは、タイ国バンコックにある王立一級寺院ワット・…
正一位末広稲荷 当時の阿波屋の当主であった江藤喜三郎さんが、文政6年、槇屋平兵衛と共に京都伏見稲荷を訪れ、現在の五柱五成と一緒にお墨付きをいただいたということです。 このお墨付きは、現在は不明となっていますが、社は当時のままお祀りしてあります。
正一位末広稲荷 文政6年(1823年)、京都伏見稲荷大社より槇屋平兵衛(新田義貞の子孫)が勧請し、自宅に祀りました。 この槙屋平兵衛には子どもがいなかったので、名跡を大塚平兵衛に譲りました。自宅土地内に祀ってあったお稲荷さんを、昭和5年、一族一門…
地下に埋められていたものを世に出したことからこの名前がつけられました。 蔵を造る際に石を埋め込む作業をしている時に地蔵も一緒に入れてしまったらしく、以来、お世話になった隣家や自分白身にけがや病気などよくないことがたて続けにおこりました。 常…
この薬師堂は、元応元年(1319年)には下記地図の場所にあったとみられていますが、明和年間(1764年~1771年)に火災により焼失したようです。本尊として祀られていた薬師如来は、福寿院(本町3-!2)に移され現在も秘仏として大切に祀られています。 このこ…
かつてこの辺りにあった薬師堂に置かれていたものだといわれています。 前面は、風化によって何と刻まれているか分かりませんが、右側面には妙法寺を示す道しるべが刻まれているため、指さし地蔵と呼ばれています。 珍しい手指し図法がみられるこのお地蔵様…
秋元雅之助氏は、子どもが健康に育つようにお地蔵様をたてましたが、戦争で焼けてしまいました。 秋元家から津田家へ嫁いだ母は、娘(正治さんの姉)を亡くしたこともあって再建を思い、昭和24年に建立しました。 そして、両家の名字である、秋元の秋と津田…
昭和何年頃か定かではありませんが、父が庭で白蛇を見つけました。 行者さんに聞いたところ「あなたに祀ってもらいたいので現れたのだろう」と言われ、昭和18年6月26日にご神体を白蛇としてお祀りしました。 戦火でこの辺一一帯が庭木まで全て消失した時に、…
「18年間生きられたらお地蔵様にしてあげようね」と、飼い猫エリに常づね話しておりましたが、ついに老衰で亡くなりました。 18年間には少し足りませんでしたが、心のささえとなってきたエリの供養と、生活の資となってきた三味線に使われていた犬・猫の供養も…
昭和24、5年頃、妹が病気になりなかなか治らず、お地蔵様を祀るとよいと言われました。 そこで、昭和25、6年の8月23日に日の出地童尊と刻まれたお地蔵様を石屋さんから購入し、庭に祀りました。おかげで病気も治り、それ以来お地蔵様を大切に守ってきています…
中田憲文・談 文明元年(1469年)、太田道潅が江戸城鎮護のため、武蔵の国一の宮大宮永川神社の神霊を、本郷と雑色(現在の弥生町にある氷川神社)に勧請分祀したものです。徳川幕府開設後は、本郷村の鎮守社となりました。 素戔鳴尊を祀っています。昭和20…
地域には、村の鎮守の氏神様、願かけのお地蔵様やお稲荷さんなど、古くから人びとの心のよりどころとして親しまれてきた場所がいくつかあります。そこは、今でも毎年祭礼が行われ、子どもから大人まで楽しみにしています。 まちを歩いてみると、 それとは別…
中野消防署 旧消防署通りの街路灯 宮の台児童館
以前の町の名前(現在の住居表示) 中野区のまちの区画や地番は、農村から都市へと発展してきた歴史的事情を反映して、境界が不明確であったり、欠番のある地番や飛び番があって極めて複雑でした。 そこで、昭和29年から町名地番整理のための調査や研究が行…
この辺は戦災を免れました 周囲はビルになりました。この辺は昭和6年に建てられました。 建前中に震災に遭い、その後建築したので70年になります。 100年以上になります。種屋から酒屋を経て現在は店を閉めています 昭和26年に取り付けた直径1.5mの看板「富…
大正末期の鍋横界隈地図によると、質屋の土蔵であったと思われます。 今は、東京文化学園の電気室となっています 東京文化学園にある蔵 質蔵として昭和3年に建てて、戦災を免れたので現在もつかっています 天井裏に明治41年7月11日棟上げの記録があります 昭…
江戸時代から続く甘藷問屋「尾張屋」は、江戸末期から明治初期の面影を現在に残す商家です。 五代目当主 寺田留次郎・談 昭和20年、強制疎開により店の家具や大黒柱など(※)郷里の埼玉県朝霞市に移動し、戦後この地に立て直して以来、現在まで使用していま…
本町4丁目の西片邸は、地域でもめずらしい洋館です。 西片秋子・談 大正10年に日本の薬学隆士を夫に持つドイツ人・高橋ルイゼさんがこの洋館を建て、住んでいましたが、義父(朝三)がルイゼさんからこの家を買い取りました。 建築後70年以上たっていますが…
時の流れを見つめて
現NTT社宅が建っている土地は、昭和32年2月11日、有島成夫氏より購入したものです。成夫氏は、元明治製菓社長として活躍していた有嶋健助氏の甥にあたります。健助氏に子どもがいないため、氏亡き後、成夫氏が家督相続しました。有嶋健助氏は、小説家とし…
富士見ハイムができたのは昭和42年で以後は変わっていません。昔、榎本武揚の邸があったこと、その後「くず鉄王」といわれた松庫商店の社長の所有になり、当時テニスコートがあった、広いグランドだったので子どもの頃よく遊んだ、戸田建設が資材置き場にし…