2020-05-12から1日間の記事一覧
作曲家の住んでいたまち ~上原げんと~ 大正3年、青森県黒石市に生まれる。 本名は治左衛門。 独学でギター・作曲を学び、昭和9年上京し岡晴夫と組んでレコード会社のテストにパス。 昭和14年、「国境の春」でデビューし「港シャンソン」「東京の花売り娘」…
女流作家の住んでいたまち ~瀬戸内晴美~ 大正11年徳島市に生まれる。 昭和38年、「夏の終わり」で第二回女流文学賞を受賞し、文学的地位が確かなものとなる。 昭和48年、51歳のとき中尊寺にて得度式をあげ出家。 法名は寂聴。 昭和39年12月から昭和41年12…
談:清水 吉ェ門(明治38年生) 以前は蛇行していた川を真っ直ぐにし土手を造った後、コンクリートの護岸工事をした時に橋が増やされたような記憶加あります。 上流のほうでは中野プール近くの本郷堰のところに丸木橋があったくらいです。昔は交通量も少なく…
へび山 現在はビル(本町5-33)になりましたが、かつてこの辺りは子どもたちの間で「へび山」と呼ばれ子どもたちの格好の遊び場でした。小高い山のようになっていて一方が崖になっていました。 小学校1・2年生の頃、「他人の敷地だから遊んでいると怒られる…
牛乳ポスト 以前は玄関脇などで良く見かけましたが、現在はほとんど見なくなりました。 古いものは写真①のように木箱でしたが、現在はプラスチック製です。びんのふたは戦前は杉の皮の経木を使っていたそうです。現在の紙の蓋はオセロゲームの開発時に(こま…
中野本郷小学校の学章の変遷 この校章は、本郷田んぼに飛び交ったという蛍と本郷村に降り積もる雪をデザイン化したもので、蛍は本という字をかたどっています。今まで出された学校からの刊行物を調べてみると蛍の形がいろいろあるのが分かります。
銭湯
談:中村時計店主 本町4-36 この金庫は大正11年に購入し、四谷から中野へ引っ越してくるときに牛2頭で引っ張って来ました。通常、店では正面に置いていました。扉の中に砂が入っていて、火に強く空襲の時も金庫の中身は無事でした。朝になると時計、貴金属や…
(資料提供 小林賢一郎氏) 中国読みの「スアンバン」がそろばんの語源と言われます。玉の動きで加減乗除をする計算器具で古くは紀元前4000年頃、古代エジプトで使われていましたが、玉を軸にさして動かす方式は中国で開発され、明の時代に日本に伝わりまし…
第3章【8】懐かしくありませんか? そろばん(算盤) 時計屋さんの金庫 銭湯 中野本郷小学校の学章の変遷 牛乳ポスト へび山 神田川にかかる橋 女流作家の住んでいたまち 作曲家の住んでいたまち
≪転車台の現れた日≫ 平成2年にまちを観察する活動を始めて以来、鍋横で育った人達との話の中に「友達5、6人で回して乗って遊んだ。」「遊んでいるとバスが来て危ないからと怒られた。」「家の中にバスが入っていって前向きに出てくるのが子ども心に不思議だ…
≪お題目石の移設≫ 取り壊される前の東横喫茶店とその横に立つお題目石 鍋横交差点の角(本町4-30)お店とお店の間に明治11年建立のお題目石がありました。元は青梅街道にあったものを、昭和5年の拡幅時に土地の所有者のご好意でこの場所に移されました。平…
語り部:山内仙太郎(昭和7年生) 鍋横に移り住んで60年余りになります。生まれは静岡ですが、昭和32年から現在のところで質屋を営んでいます。時代の流れとともにまちもいろいろ様変わりしてきましたが、私が一番心に残っているのが戦時中のことです。 昭和…
語り部:鹿山和夫(大正8年生) 関東大震災の後、中野にやってきました。当時の青梅街道は電車やバス、馬車などが行き来する物流の道でした。その道を渡って桃園第三小学校へ通うのを母が心配して、現在地(中央5-10)に越してきました。中央西公園になって…
語り部:池田セツ(明治40年生) 鍋横のこの場所には、関東大震災の年に移ってきましたが、私の家の周りは畑が多く特にナス畑が多かったですね。また、軍人さんが多く住んでいました。戦中、戦後の食糧難の時代には中央線で国分寺まで行きそれからまた乗り換…
語り部:三ツ木いと(大正3年生) 生まれも育ちも中央です。幼い頃、今の野津医院(本町6-20)付近一帯に芝生の原っぱがあって、よく、バッタを追ったり鬼ごっこをして遊びました。“カッパの干場”と呼ばれて、一面に油紙の厚いのが干してありました。雨合羽…
語り部:松倉英一(明治40年生) ここ(本町6-17)には、旧制中学3年の時(大正11年)に渋谷区から引っ越してきて以来ですから、かれこれ80年近くになります。当時は中野西町と言っていました。 引っ越してから1年後に、あの関東大震災(大正12年9月)があ…
第3章【5】(扉)まちが変わる―関東大震災・第二次世界大戦によって― (1)怖かった関東大震災(2)カッパの干し場(3)買出し(4)バラエティに富んだ物売り(行商)(5)まちが変わった日
語り部:阿部豊(大正12年生) 昭和5年から72年間本町6丁目に住んでいます。この辺りは大蔵省や職業軍人、大地主のお宅が多く、そのせいかゴルフ場があったり(現女子美術大学)、乗馬クラブがありました。 昭和10年頃にはまだ、春になると本郷田んぼがレン…
語り部:木口弘(昭和2年生) 昭和10年に本町5丁目に越してきて、本郷小学校3年に編入しました。当時は、現在の十貫坂上の交差点から中野通りを下った辺りで急に道が拡がっていて、そこまでは道が狭いため車の往来も少なく道路でよく野球をしました。 千代田…
語り部:菅沼貴代子(大正14年生) 戦災に遭うまで、父が宮里11番地(現本町4-17)で写真館をやっていました。本郷小学校の専属の写真屋として遠足などについて行っていまして、私の6年生の修学旅行にも一緒でした。父が写真を撮って帰ると、暗室で現像を手…
語り部:鈴木サトミ(大正9年生) 戦後間もなく、現在地(本町4-9)に居を構えた我が家に戦時中に住んでいた日光(栃木県)で知り合いになった娘さんが、突然上京してきたので4、5日面倒を見てあげたことかあります。その後、娘さんは荻窪駅前にあった造園…
語り部:岡田富士子(大正15年生) 昭和38年に子どもの通学のため、杉並から今のところ(氷川神社の裏)に引越してきました。この辺りには、情報局総裁がお住まいだったお宅など、大きな家がいくつかありました。東大独文学の山下教授のお宅は風情のある日本…
語り部:小野仁子(昭和4年生) 昭和14年、小学4年生の時に引越してきて以来、鍋横に住んでいます。戦前の鍋横は中野銀座と言われるほどとてもハイカラで、青梅街道には夜店が出たりと、子ども心にもピカピカときらびやかだった印象があります。その頃、鍋横…
(1) 思い出がいっぱいつまったまち(2) 風情ある町並み(3) 樹齢50年の桜 ―氷川神社―(4) 親子二代で遊んだ崖(5) 中野通りのむかし(6) 本郷田んぼの「あげひばり」