語り部:小林ミツ(大正7年生) 私が生まれる前、家族は文京区の本郷に住んでいました。関東大震災で家が焼け、翌年鍋横に越してきて、大正の終わりか昭和の初め頃に、父が「本郷堂書店」を開業しました。店名の由来は、文京区の本郷から鍋横の本郷の地に来…
語り部:天野弘子(昭和6年生) 私が生まれる前、家族は文京区の本郷に住んでいました。関東大震災で家が焼け、翌年鍋横に越してきて、大正の終わりか昭和の初め頃に、父が「本郷堂書店」を開業しました。店名の由来は、文京区の本郷から鍋横の本郷の地に来…
語り部:深山雄暉(昭和9年生) 母親が現在の場所に文具店を開店したのは昭和20年のことです。9月から中野本郷小の6年生に転校して、昭和31年に店を引き継ぎ、現在に至っています。 「鍋屋横丁に引越しよ」と言われた時、有名な地名だし、浅草の仲見世みたい…
語り部:高野キヨ子(大正9年生) 鍋横通りで下駄屋を営んでいた頃、周囲にはたくさんの商店があり、ほとんどの日用品は近所でこと足りた時代でした。通りをはさんで向かい合って魚屋があったりしました。 下駄を商品として店に出す前にすることがあります。…
第4章【2】(扉)賑わいのあった鍋横商店街 賑わいのあった鍋横商店街 現在は時代の変遷で商店街の数も減ってしまいましたが、昭和30・40年代は100店舗以上もあり、大体の生活用品は地域でこと足りました。 昭和40年代の鍋横商店街 福引の景品は三種の神器…
語り部:渡邉 時(大正10年生) 昭和22年から追分通りで燃料店を営んでいます。この頃、都市ガスも通っていましたが、燃料の主流はまだ炭、まき、石炭でしたね。 炭は俵(15㎏)に入っていて、のこぎりで短く切って売っていました。昭和30年代に電動が開発さ…
語り部:鬼沢 信義(昭和10年生)、成沢 博紀(昭和15年生)、菊川 信夫(昭和8年生)、今宮 朝男(昭和8年生) 戦前の追分通りは現在と道幅はあまり変わりませんが、牛車や馬車が行き来していて賑わいがありました。鍋屋横丁の縁日も追分通りまで伸びること…
語り部:川本正太郎(大正11年生) 地下鉄新中野駅近くの追分通り沿いに住んで60年になります。戦前まで近くの転車台(バスなどが狭い場所でも方向転換できるように考案された回転盤)があり、新宿と堀ノ内方面のバス往復に活用されていました。転車台に乗っ…
オドヲン座を語る 映画が庶民の楽しみのひとつだった時代、鍋横には3つの映画館がありました。昭和54年に閉館たオデヲン座には色々な思い出があります。 (木口 弘・談)妻との初デートはオデヲン座で洋画を観て、東京パンのパーラーでお茶を飲みました。当…
語り部:小宮哲郎(昭和6年生) 昭和26年に父親のあとを継いで、三味線橋通りで、ふすま、壁紙から屏風などを幅広く扱う表具店を営んでいました。昭和30年代は商店の数も多く賑わいがありました。 このあたりで印象に残っていることは、戦災で焼け残った高野…
昭和30年頃の三味線橋通り商店街と追分通り
語り部:宮下義勝(昭和6年生) 紺のブレザー、紺の帽子に白手袋、首からがま口の黒革鞄を提げ、都バスの車掌をしていました。昭和22年頃のことです。私が当時18歳で、この年頃の車掌はみな「少年車掌」といい、それが職業名となっていました。 堀の内営業所…
語り部:上島昌之(大正14年生) 昭和10年頃のことですかね。鍋横の思い出はなんと言っても夜店ですね。毎週土曜日、日曜日と鍋横交差点を中心に特に北側の歩道にたくさんの店が並ぶんです。慈眼寺から追分通りの入り口付近まででしたが、子どもの頃にはずい…
語り部:鈴木淑彦(昭和4年生) 昔、鍋横地域は中野の中心で、有名人や都心に通勤する会社員が多く住んでいたように憶えています。デパートの配送所が近接していたのも、おそらくご進物の多い彼らにいち早くお届けする必要があったものと推測できます。 最近…
語り部:新井喜助(大正8年生) 東京パンは1階がパン販売と喫茶、2階が洋食、3階が厨房になっていました。 当時のお客さんの話によると、洋食部はこの辺りでは数少ない洋食器を使用する店で、ポークソティが評判であったとか。また、窓辺から西武電車や青バ…
地場産業のそばを粉にする高野製粉所。近くに石森製粉や川武などがありました。 荒物から文具までに日用品ならなんでも揃う江藤商店 デーパートのはしり阿波屋。 隣の江藤家具店とで嫁入り道具を揃えるのは当時のステータス。 五柱五成のいちょうを背にする…
語り部:江藤喜久子(大正12年生) 幕末から現在に続く呉服店の一人娘として生まれ、鍋横の店が空襲で焼失するまで、祖父母、父母と三世代で住んでいました。その後は焼け残った本町6丁目に居を移して以来60数年になります。戦後店は再開しましたが、商売の…
語り部:江藤春雄(大正13年生) おかめ屋レコード店では朝から晩まで当時の流行歌(愛染かつら・東京音頭等)がスピーカーから流れっぱなしでした。現在だとうるさいとか騒音の対象になるところですが、それが許された時代でした。 阿波屋の店内の広い階段…
第4章【1】(扉)鍋屋横丁界隈 鍋横交差点の界隈には、モダンな建物や洒落た店が多くありました。デパートのような阿波屋、東京パン、キラキラ光る銀食器のお店、銀のナイフやスプーンを使う洋食屋さんなどとても華やかでした。 戦前の鍋横は中野の銀座 老…
作曲家の住んでいたまち ~上原げんと~ 大正3年、青森県黒石市に生まれる。 本名は治左衛門。 独学でギター・作曲を学び、昭和9年上京し岡晴夫と組んでレコード会社のテストにパス。 昭和14年、「国境の春」でデビューし「港シャンソン」「東京の花売り娘」…
女流作家の住んでいたまち ~瀬戸内晴美~ 大正11年徳島市に生まれる。 昭和38年、「夏の終わり」で第二回女流文学賞を受賞し、文学的地位が確かなものとなる。 昭和48年、51歳のとき中尊寺にて得度式をあげ出家。 法名は寂聴。 昭和39年12月から昭和41年12…
談:清水 吉ェ門(明治38年生) 以前は蛇行していた川を真っ直ぐにし土手を造った後、コンクリートの護岸工事をした時に橋が増やされたような記憶加あります。 上流のほうでは中野プール近くの本郷堰のところに丸木橋があったくらいです。昔は交通量も少なく…
へび山 現在はビル(本町5-33)になりましたが、かつてこの辺りは子どもたちの間で「へび山」と呼ばれ子どもたちの格好の遊び場でした。小高い山のようになっていて一方が崖になっていました。 小学校1・2年生の頃、「他人の敷地だから遊んでいると怒られる…
牛乳ポスト 以前は玄関脇などで良く見かけましたが、現在はほとんど見なくなりました。 古いものは写真①のように木箱でしたが、現在はプラスチック製です。びんのふたは戦前は杉の皮の経木を使っていたそうです。現在の紙の蓋はオセロゲームの開発時に(こま…
中野本郷小学校の学章の変遷 この校章は、本郷田んぼに飛び交ったという蛍と本郷村に降り積もる雪をデザイン化したもので、蛍は本という字をかたどっています。今まで出された学校からの刊行物を調べてみると蛍の形がいろいろあるのが分かります。
銭湯
談:中村時計店主 本町4-36 この金庫は大正11年に購入し、四谷から中野へ引っ越してくるときに牛2頭で引っ張って来ました。通常、店では正面に置いていました。扉の中に砂が入っていて、火に強く空襲の時も金庫の中身は無事でした。朝になると時計、貴金属や…
(資料提供 小林賢一郎氏) 中国読みの「スアンバン」がそろばんの語源と言われます。玉の動きで加減乗除をする計算器具で古くは紀元前4000年頃、古代エジプトで使われていましたが、玉を軸にさして動かす方式は中国で開発され、明の時代に日本に伝わりまし…
第3章【8】懐かしくありませんか? そろばん(算盤) 時計屋さんの金庫 銭湯 中野本郷小学校の学章の変遷 牛乳ポスト へび山 神田川にかかる橋 女流作家の住んでいたまち 作曲家の住んでいたまち
≪転車台の現れた日≫ 平成2年にまちを観察する活動を始めて以来、鍋横で育った人達との話の中に「友達5、6人で回して乗って遊んだ。」「遊んでいるとバスが来て危ないからと怒られた。」「家の中にバスが入っていって前向きに出てくるのが子ども心に不思議だ…