なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第3章【1】(1)拡幅前後の青梅街道 語り部:植野國男(大正6生)

語り部:植野國男(大正6生)

語り部:植野國男(大正6生)

 青梅街道が昭和4年に拡幅されることになり、米屋をやっていた私の家は道路になるということで立退きとなりました。拡幅前の道幅は10軒位(約18m)だったでしょうか。

 真ん中を西武電車が走っていました。雨が降ると道がぬかるみ自動車が通ると大変で、跳ね上がった泥が家の中まで入ってくるのを店の前に戸板を立て泥除けにしました。

 また淀橋のやっちゃ場(青物市場)に野菜を積んで行く馬車が何十台も通るので、道いっぱい馬糞だらけになってしまい、その片付けもっぱら子どもたちの仕事でした。

 拡幅後に道が整備されて歩道ができると、道を挟んで土・日ごとに交代でどちらか一方の側に夜店が出るようになりました。

 バナナの叩き売りセルロイドのおもちゃ、着物の反物などを売る店が連なり、両端は必ず植木屋でお店全体の3分の1ほどありました。夜になると灯りに使うアセチレンガスの独特の臭いが漂っていたのが忘れられませんね。

 米屋は戦時中に配給制となり、私が戦後復員してきた頃には、継げなかったのです。海軍で電気関係についていたので電気店を始めました。当時主流の品物から店名を光(電球)、音(ラジオ)堂と名づけました。