なべよこ観察隊|鍋横物語 見たい 聞きたい 記録したい|東京都中野区

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第3章【3】(4)地域のリーダー 語り部:神津賢一(大正13年生)

語り部:神津賢一(大正13年生)

語り部:神津賢一(大正13年生)

 昭和19年、本町6丁目に移り住んできました。その前にも本町6丁目に親戚の家があったので、この辺には子どもの頃よく来ていました。

 十貫坂の酒屋さん(足立屋)の前あたりにポテト(じゃがいもを揚げたもの)を売っている店があり、当時としてはハイカラで、おこずかいをもらって買っていましたね。

 越してきた当時は、西町の町会はなく、その前身の西町青年会で私は会長を務めました。現在の杉並区の富士見ハイムにグランドがありましたので、4つのチームを作り野球のトーナメント試合を開催しました。私は審判をしました。

 現在、行っているラジオ体操は、この頃子どもたちを集めて始めたものです。

現在も続いている朝のラジオ体操(杉山公園)

現在も続いている朝のラジオ体操(杉山公園)

 昭和25年頃でしょうか、西町青年会で、町内をぐるっと一回りしてから大宮八幡・府中の大国魂神社を通り高尾山までのサイクリングをしました。

 今ほど自転車が普及しておらず機能も充実していませんでしたが50人位の参加があったでしょうか。大体片道3時間位かかったのを覚えています。

 ご記憶にある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

第3章【3】(3)それぞれの思い出 語り部:会田幸子(昭和9年生)、会田喜久(昭和2年生)

会田幸子(昭和9年生)

会田幸子(昭和9年生)

 (幸子) 鍋横の思い出といえば、学校帰りに阿波屋さんのガラス窓を守る鉄の棒で、でんぐり返し(前まわり)をするのが、楽しい日課たったことですね。

 

会田喜久(昭和2年生)

会田喜久(昭和2年生)

 (喜久) 私は、店の人に見つからないよう店内を通り抜けるのが、ちょっとしたスリルある遊びだったことを覚えていますね。すべり坂(現富士高校からの斜面)で、水とござを持って滑ったり神田川でうなぎを電気ショックや穴釣りでとったこともありました。
 他にキャラメルの空箱を数枚持っていくと、中野館で映画がただになり、「20世紀の世界」というアメリカ映画を観たことを覚えています。キャラメルの箱は大宮公園まで拾いに行ったものです。

 (幸子) いろいろな店に貼ってあるポスターの隅にある三角(ビラの下)を切り取って持っていっても無料で入れました。地域センターから杉並の和田にかけては、お屋敷が多く、地域センターのある場所もドイツ語の権田先生の邸宅でした。
 その後、女優の星美智子さんに渡り、それからセンターになったかと思います。この辺は文士が多く、センターの向かいに住んでいた早稲田大学の小宮先生は夏目漱石の研究をされていましたよ。

第3章【3】(2)子どもの楽しみ 語り部:藤井文江(昭和2年生)

語り部:藤井文江(昭和2年生)

語り部:藤井文江(昭和2年生)

 昭和10年頃でしょうか、本郷小学校の北側に「なべよこ広場」という絶好の遊び揚がありました。お正月には、子どもが羽根つきや凧揚げをして遊んだものです。

 普段は相撲をとったり、弓の大会があったり一年を通して使える大変便利な広場でした。近所の梅屋敷も子どもにとって格好の遊び場でしたが、ここは時々シマヘビがにょろにょろ出てきたりして怖かったことを覚えています。

イラスト

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 花見時などにはちょっと遠出して、大宮公園に遊びに行きました。お弁当とござを持ち、近所のガキ大将を先頭に十貫坂からブース病院を経て、田んぼの中を歩いて行き、源義家の行列や流鏑馬(やぶさめを見たり、楽しいお花見の一日を過ごしました。

 町にはおでん屋があり、おでんもよく買いました。たしか、串1本に3個ついて1銭でしたね。時折、桶を担いだ飴屋やフキ豆売りも来たりして、子どもには1銭でも三角袋へ入れて売ってくれました。

 いつも早く来ないかと楽しみに待っていたことを覚えてます。1軒だけあったラジオ屋の前は、夏になると全国高校野球大会の実況を聴く人で溢れ返っていたことを懐かしく思いだします。

 

第3章【3】(1)子どもたちの世界 語り部:語り部:安藤幸好(大正6年生)

語り部:語り部:安藤幸好(大正6年生)

語り部語り部:安藤幸好(大正6年生)

 十貫坂上から神田川にかけて本町5丁目辺りは一面畑だったんだがね、大正13年頃から、関東大震災後に下町方面から避難してきた人たちが、農地に家を建て始めたんです。結果ね、農家が畑作をやめ休耕田となった所が子どもたちにとって絶好の遊び場となったんです。

 春や秋の気候の良い時期は、三角ベース野球に夢中になり疲れるまで遊びました。家に戻っても疲れてないと遊んだ気がしませんでしたね。

 夏ともなると、当然に神田川での水遊びです。学校にプールが無かったので泳ぎはここで覚えました。富士高校のある高台は楢の木などの雑木林で、その下を神田川から濯漑用水が流れていました。

 畑に水を引かなくなり堰を止める、水が減った後には魚が一杯集まるんです、“掻い堀り”といって、ふな、鯉、タナゴ、どじょうが手で取り放題でしたね。

 みんな兄弟が多く、高学年ともなると弟妹の子守をしながら遊ぶというのが日常でね、友達が5、6人も集まるとあれよという間にもう30人位の集団ができるんですよ。

 その中で自然にリーダー(いわゆるガキ大将)が生まれます。子どもだけの秘密情報が先輩から後輩に受け継がれていきましてね、危ないところ、川の深いところ、栗の本のあるところ・・・なんでも良く知っています。

 小さい子が危なくないよう気を配る事も年長者の役目でしたね。その様子を見て育った子どもが、また次に受け継いでいくんですよ。それが昔の子どもの世界だったんです。

 

第3章【3】(扉)空き地は社交の場 ―遊びは創意・工夫で―

(1) 子どもたちの世界
(2) 子どもの楽しみ
(3) それぞれの想い出
(4) 地域のリーダー

 

第3章【2】(11)花に囲まれて幸せ 語り部:庄司みき(大正4年生)

語り部:庄司みき(大正4年生)

語り部:庄司みき(大正4年生)

 昭和16年に房総(千葉県)から鍋横の花屋「みどり屋」(中央4-1)へ嫁いで、それ以来花に囲まれての生活です。

 昔も今も店に並ぶ花を市場で仕入れて販売するのは同じですが、温室栽培がないため、四季折々の花が1年を通して彩ることは無く、種類も少なかったものです。

 でも、自然に育った花は、元気がよく長持ちして香りが良かったですよ。冬は伊豆方面からのフリージア、房総からの金盞花きんせんか、ストック春は房総の菜の花。夏は麒麟草、グラジオラスですが、この時期は各家庭に花が咲いているので売れなかったのを覚えています。秋には信州からの菊が多かったですね。

 

イラスト

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 昔は、花を活用する場も少なく、娘さんが生け花のお免状を嫁入り道具の一つとして持っていく時の習い事用とか、女子高校の教科であるとか、会社の女性社員が職場で習うときなどに使われる程度でしたね。

 お正月に苔松を床の間に生ける方が多かったですよ。仏壇の花は仏様の姿に飾る方もいました。

 花屋さんをしていて良かった事は、毎日花の中で暮らしてきて、花の香に元気をもらい日々を健康でいられることですね。また、多く種類の花に出会えたことですね。

第3章【2】(10)ラジオは注文を受けてから 語り部:小澤岩男(昭和5年生)

語り部:小澤岩男(昭和5年生)

語り部:小澤岩男(昭和5年生)

 兄が、昭和28年に本郷通り(スーパーつかさの前)に清和電機を開店し、私も働くようになりました。当時は電気屋で扱うものといったら電球と電熱器くらいでした。電気蓄音機などは、神田で部品を買ってきて、組み立てて売っていました。

 ラジオも「セミ完」(セミ完成品)といって、外側だけ店先に展示して、お客さんの注文を受けてから中身をつくる、というやり方をしていたんです。

 テレビも同じでしたが、昭和34年の皇太子御成婚のころから、大量に売れはじめて追いつかなくなりました。大晦日にテレビ50台納めたこともありました。

 昭和43年、今の所(本町5-40)に越してきました。「タカラ館」という映画館があった場所だそうですが、あまり覚えていないです。

 そのころ、大和会商店街のつきあたりに立正佼成会の聖堂があったので大勢の人がお参りに来て、賑やかで、まさに「門前市をなす」という感じでしたよ。