なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第4章【9】(4)西町花の公園の由来 語り部:石田 博治さん(大正3年生)

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語り部:石田 博治さん(大正3年生)

 昭和の終わり頃、私の家の前2軒が引っ越して、空き家になることがわかりました。当時西町の町会長をしていた私のところへご近所の皆さんから、この土地を公園にしたいとの強い希望が寄せられました。早速、地域センター所長等に相談したところ、公園として整備されることになり、どのような公園にしたらいいかご近所の方々が中心になって、喧々諤々、話し合いを進めました。その結果、遊具などは何もない「四季の花の咲く公園にしよう」と決まりました。この公園のネーミングを地域ニュースで公募しましたが、適当な応募がなく町会長の私に一任されたので「西町花の公園」と命名しました。

 現在では公園名のとおり、春の訪れを告げる日向ミズキから始まって、椿・サザンカ・梅・山吹と続き、3月末には大木となった2本のソメイヨシノが見事な桜の花を咲かせます。桜は夏には暑さをしのぐ木陰を作り、冬は落葉して日向ぼっこをさせてくれます。この桜の苗木を植えた当時、サッカー少年に枝を折られ、添え木をした思い出があります。これだけ大きくなったものだと感慨深いですね。お花見の季節には、運営委員会で飾ったぼんぼりの下に、町会や老人クラブ、親子連れや仲良しグループなどの微笑ましい光景が広がります。小さな公園ですが、住宅地の真ん中にあって、季節の花々の咲く、とても貴重な憩いの場所です。

 

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第4章【9】(3)神谷酒場の電気プランと煮込み 語り部:神谷 光太郎(昭和22年生)

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語り部:神谷 光太郎(昭和22年生)

 戦前から酒屋だった親父がここにカウンター式の立ち飲みバーを開店したのは、戦後5~6年たってからです。

 東京で最初のバーとして知られる浅草の「神谷バー」との関係は、神谷酒場の経営者と名前も郷里も同じことと、電気ブラン(約100年前に登場した、ブランデーベースにジンや薬草などを入れたアルコール30度のカクテル)や蜂葡萄酒を仕入れていた関係で名称を使用することを認めてもらったと聞いています。

 当時のつまみはピーナッツ・塩豆などの乾き物が多かったのですが、うちは親父が作る煮込みが評判でした。韓国人の店からきれいに下処理してもらった鶏肉を仕入れ、二種類の味噌を使い秘伝の味付けをしていたからです。昭和30~40年頃は2階の座敷で宴会がよくあり、酔っ払いが夜遅くまで騒ぐのでなかなか眠れなかった記憶があります。当時ご馳走だった鶏のもも肉や海老フライなどが、余ったときにはよく食べました。そのせいか、今では全くダメですね。酒屋の後は継ぎましたが、バーは親父の高齢化と鶏肉屋の閉店などで昭和60年頃閉じました。常連さんが作った神谷会があったと聞いていますが、そのメンバーが何人か地域にいるかと思うと嬉しいですね。

 

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第4章【9】(2)配給切符制 語り部:下條 代志夫(大正14年生)

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語り部:下條 代志夫(大正14年生)

 宮里町会はいま本町4・5丁目になりますが、終戦(昭和20年)前は宮里町何番地といい氷川神社が1番地で反時計回りに2番、3番・・・48番地と町会を一巡します。私の所は11番地でした。

 戦前には町会の書記をしていましたが、戦時中はすべて配給切符制で、米、味噌、醤油等の食料品から靴下、下着等の衣料品までこの切符が無ければ買えませんでした。切符の受付、発行を全て町会が担っており、今とは違って町会の構成員でなければ暮らせなかったのです。「特配」といって大工さんなどは米が増配になったり、冠婚葬祭や出征の時にだけ申請するとお酒が配給されました。全員で清酒1本を大切に飲みました。特にお酒は割れたら大変なので子どもになんか持たせられませんでしたね。それほど貴重なものでした。

 昭和19年には「こんなに町会の仕事が忙しいのでなんとかしよう」と、東京都が嘱託にして20円と高い給料をもらいました。でも1回もらっただけで最後の現役入営になってしまいました。

 夜間は灯火管制が敷かれ、どこの家も電球を黒布で覆い、警戒警報が「ブーブー」と10回位鳴ると電気を消し、防空壕に入る準備をしたものです。また、敵機襲来ともなると空襲警報となって「ブー」と鳴りっぱなしになります。これは爆弾が落とされる時で、入営前に2回経験しました。

 

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第4章【9】(1)手にくっついた茶碗 語り部:清水 吉右工門(大正5年生)

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語り部:清水 吉右工門(大正5年生)

 マグニチュード7.2の大地震相模湾震源として関東南部を襲ったとき私は小学一年生でした。大正12年の9月1日、家族と昼食をとっている時に、ドスーンと大きな揺れがあり「大地震だ!裏山に逃げろ」の声に家を飛び出しました。すごい強風の中にいるような揺れ方で、とても立っていられません。家にいた作男(さくおとこ・農作業のお手伝いをする人)が、吹き飛ばされないようにと私を荒縄で木に結わえ付けてくれました。

 かった余震も収まりやれやれと家に戻って一息ついた時、皆が私を見て笑うんです。はてと思って手元を見ると、なんと昼食時のご飯茶碗をそのまま持っていたのです。極度の恐怖のために指が硬直して茶碗が離れなかったのですよ。また、どうしたことか茶碗の中がすすけたようになっていました。落ち着いた頃神田川に行ってみると、下町(今の新宿辺りを指す)のほうが焼けて空か真っ赤になっていました。鍋屋横丁方面には火災は無かったようでした。我が家は倒壊はしなかったものの破損が多かったので、建替えとなりました。

 

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第4章【8】(2)焼け跡に建った校舎 語り部:戸田茂(昭和11年生)

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語り部:戸田茂(昭和11年生)

 旧高等小学校の焼け跡に開校した二中に、昭和23年2期生として入学しました。その頃の校庭は末整備で、旧校舎の瓦礫が至るところに残っていましたが、野球部やバレー部等の部活動は行われていましたね。野球部だったので部活動の練習をしていると、身体の大きなホークスの選手が偶然通りかかったので、練習を見てもらったことがありました。すごく嬉しかったし、また、サインをもらう友達もいました。

 当時の二中は、学年により桃三小や本郷小等での仮校舎授業を受けていましたが、3年生になって校舎が増築され、やっと落ち着いた学校生活になりました。ところが増築された教室は6教室しかなく、3年生は7クラスで生徒達は当然もめましたね。抽選にしてはとか、いろいろ意見が出ましたが、その結果、G組の私のクラスが古い校舎にされてしまい悔しい思いをしました。

 放課後は野球をしてよく遊びました。バットもグローブもボールも全て手作りで、車の少ない頃でしたから道路でもどこでもが遊び場になっていました。二中周辺の家並みは今とあまり変わりません。NTT社宅があった場所には有島邸という立派な屋敷があり、当時アメリカ軍に接収され、東京裁判の関係者もいたと記憶しています。終戦間もない大変な時代を過ごした母校が、60周年を迎え感慨深いものがあり、今となっては懐かしい思い出となっています。

 

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第4章【8】(1)バイタリティにあふれたPTA 語り部:古澤浪子(大正14年生)

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語り部:古澤浪子(大正14年生)

 昭和36年、息子が中野本郷小に入学すると共にPTAの委員を引き受けて以来2人の子どもが卒業するまで、長い間関わりました。1年生の運動会の時、校庭の2箇所にテントを張って、上級生と下級生の親に分かれ売店を出しました。初めてのことで何も分からないながらチラシを貼ったり、声を張り上げて呼び込みをして、経験のある上級生の売店より多く売り上げました。あとで「今年の1年生の親はすごい」と言われましたが、皆バイタリティがあったんです。また、中野区で初めて校庭にやぐらを建て盆踊りをしたこともあります。:大勢参加してPTAの役員が太鼓を叩いたり楽しかったです。

 昭和51年、中野本郷小の隣接地吉川邸(660坪)の売却話を、いち早く聞き込んで、すぐに中野区(学校)で買ってもらうように校長に話しました。それから、すぐに教育委員会の方で動いてくれたのですね。現在、自然教材園として自然と触れ合う学習に役立っている土地の取得に貢献できたことを喜んでいます。池の水を利用した水車を、宮里町会の大工さんが大変苦労して作ってくれたのが思い出されます。池にはおたまじゃくしが、うじゃうじゃいました。今でも周辺には蛙が多く、道などで見かけると、あの池から来たのかとひとしお可愛く感じます。

 

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教材園のもとになった吉川邸の庭

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