第2章【1】青梅街道界隈
ターンテーブルがあった建物は昭和6年頃の建築で、現在は喫茶店になっています。 戦後、バスが大型化され狭くなって入りきれなくなって廃止されたそうですが、当時の機械がそのまま店内の床下に残っています。 昭和21年に店舗に改造して、東横バスの名前をと…
語り部:江藤春雄(大正13年生) 記憶によると東横バスが鍋横通りを走っていたのは、昭和20年の頃までと思います。 当時の道幅は現在よりもずっと狭く、バスがやっと通れる位でした。そのためバスが方向を換えるためのターンテーブル(私は「ロータリー」と…
戦前、鍋横から大宮八幡まで乗合バスが走っていました。 鍋屋横丁(本町4‐30)に東横バスの発着所かありましたが、昭和10年頃の鍋横通りは道幅が狭く、バスがUターンできないので方向転換するために発着所の建物内にターンテーブル(転車台)を設置していま…
語り部:朝倉春江(昭和2年生) 小学校3年生の頃、宮里37番地(本町4 -24)に引っ越しましたが、それまで通っていた谷戸小学校に2歳年上の「兄ちゃん」といっしょに通学していました。 通学には青梅街道を通っていきましたが、鍋横交差点近くの「野々山パン屋…
語り部:小倉一祐(明治41年生) 私が鍋横交差点近くに洋食レストランを開いたのは昭和3年、20歳のときです。当時、中野駅北口一帯に陸軍の電信隊があったのですが、駅周辺には旅館が2軒あるだけで、中野の中心といえば鍋横から宝仙寺周辺だったんです。 休…
慶長年間に江戸の城郭や寺院の造営に使う石灰を産地の成木、小木曽地区(青梅の北)から江戸に運ぶために拓かれて以来、何回かの拡幅を重ね、現在のような幹線道路となりました。 江戸中期から堀之内妙法寺への参詣が盛んになるにつれ、この街道沿いも発展し…