なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第4章【5】(1)水車坂 語り部:小野和衛(大正8年生)

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語り部:小野和衛(大正8年生)

 自宅近くに古くから「水車坂」と呼ばれている坂があります。大正13年に下町から越してきたときは、この付近はまだ関東大震災の住宅需要に応じた宅地造成が盛んでした。家の前の原っぱにはトロッコレールが敷設されていて、土木作業が行われていました。子どもの頃はこのトロッコで遊ぶのが一番の楽しみで、作業員の留守を狙ってはトロッコ遊びをしたものです。その頃、坂下の田んぼもすでに宅地化されていて、小屋はありましたが水車は見かけませんでした。この水車を回したという水流は現在でも残っています。この水車坂の謂れについては坂途中に掲示されています。

 「この坂を水車坂という。往時この坂の東側は大きく崖になってこの窪地に水車があった事に由来する。水車を動かす水流は西町天神西方の弁天池の湧水が源流となり桃園田圃に向かって水路をつくり、田圃と台地接点を東流してこの坂下にきている・・・。」とあります。

 

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第4章【4】(2)私と杉山公園 語り部:柴 きよ(大正3年生)

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語り部:柴 きよ(大正3年生)

 昭和10年茨城県久下田から上京し、杉山公園と路地を隔てた青梅街道沿いに酒屋を開業しました。店の前には西武電車が走り、まだ牛車や馬車が往き来している時代でした。

 東京市の児童公園として開園1年目を迎えた杉山公園は、杉山三体地蔵尊の前が広場で中央に藤棚、奥にブランコや砂場などがあったと記憶しています。当時は住宅に囲まれていて、出入り口は、青梅街道口ともうひとつ路地口がありました。そこから公園に入る子供の姿を見届けてから私は家業に励んだものです。

 戦時下となり、酒類も統制時代に入り一度閉店しました。戦後昭和22年に再び上京して、今度は公園の隣で酒屋を始めた時には、中野通り側は戦時中の強制疎開で馴染みの家々が取り払われ、杉山公園は明るくなっていました。跡地の道路は舗装されず雨でぬかるむと高下駄でないと歩けなかったことを思い出します。その頃は、代用醤油時代だったので、郷里の醸造元から運んだ醤油が「本物だ」と皆様に喜んでいただきました。

 現在は青梅街道を隔てた所に住んで居りますが、杉山公園のラジオ体操には毎朝かかさず通って健康づくりをしています。今は大木となった銀杏の芽生え、落葉で季節を教えられ、いつの間にか70年近くの歳月が経ちました。

 

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第4章【4】(1)遊び博士 語り部:阿部一雄(昭和8年生)

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語り部:阿部一雄(昭和8年生)

 「杉山公園」が誕生した昭和8年にこの近くで生まれ、現在まで共に時代を過ごしてきました。当時の公園にもブランコ・すべり台・砂場がありました。隅っこに植わっていたイチョウの木をハンモックにしていたこともありましたよ。この「ハンモック」というのは枝に縄を蜘蛛の巣のように張った、自分たちの手作りの品です。ガキ大将だった私は、その上で年下の友達に良いことと悪いことの分別を教えてあげました。そこに寝転ぶと、東の淀橋の浄水場や西の空に沈む真っ赤な夕日を眺めることができました。風の強い日は、杉並の方の原っぱで砂が黄砂のように舞い上がり、辺り一面真っ黄色になって先が見えなくなるほどでした。そんな想い出の詰まった木も、今は切り株が残るだけになりました。

 私の通っていた中野本郷小学校では男女別のクラスで、普段も別れて遊んでいました。憧れの女の子がいても遠くから眺めているだけ・・・そういう時代でしたよ。その頃流行っていたのは「水雷艇すいらいてい」という二手に分かれ、相手のチームとつかまえっこするゲームです。じゃんけんでいうとグー・チョキ・パーのように、学帽を前・横・後ろに被りわけることで誰が誰に強いかを示したんですよ。お金を使わずにいかに楽しく遊ぶか工夫を凝らして考えました。「子どもは遊び博士」とはよく言ったものですね。

 

 

第4章【3】(2)祠を廻って度胸だめし 語り部:成瀬 光(大正9年生)

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語り部:成瀬 光(大正9年生)

 青梅街道を走る西武電車の軌道は、鍋横の辺りでは道の中心より南側に寄って敷かれていたため道幅が狭く店の前は雨が降ると車の泥跳ねにより、商品が泥だらけになってしまうので、戸板を並べて防ぐありさまでした。昭和5年の拡幅により人道ができたなので、その悩みも解消されましたが、セットバックになり、家を新しく建て直すことになったのです。大家の徳田屋(材木店)の息子さんが外観の洒落た物を造りたいと、都心(神田)まで見に行って参考にしたらしいのですが、2階の窓が凹凸になっている変わった建物になりました。家の裏にある五柱五成(ごしゃいなり)神社で友達とよく度胸試しをして遊びました。

 現在の立派な社殿になる前は祠になっていて、鳥居をくぐってその裏を廻ってくるだけなのですが、とにかく怖かったのを覚えています。敷地はほとんど変わっていない筈なのに、今では考えられないくらい距離があったように感じました。当時は、ドイツ製の「ライカ」1台で家が建つという時代でした。写真好きの私は戦後になって、3軒先の写真店(長面堂)に入り込んだのがきっかけで、カメラ店を開いたわけです。

 

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☆なぜ「稲荷」でなく「五成」
 五柱五成とは衣食住を中心に人間の生活を守る働きを持っている五柱(いつはしら)の神によって、家庭と地域社会の安心と安全を成就せしめるという意味だそうです。

 

 

第4章【3】(1)五柱(ごしゃ)さんと親しまれ 語り部:稲子知義(昭和11年生)

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語り部:稲子知義(昭和11年生)

 銀杏に囲まれた五柱五成ごしゃいなり神社は、先祖が文政6年(1823年)に京都伏見稲荷大社から勧請を受け、屋敷稲荷として祀ったのが始まりです。祠(ほこら)とその前の道は、元々敷地内にありましたが、青梅街道へ出る抜け道として近隣の方を通してあげたところ、いつしか稲荷の存在が口コミで広がり、願いが叶うなどの評判が立ち始め、地域の人々に親しまれていきました。

 昭和20年5月鍋横が空襲を受けたとき、避難先の和田(杉並区)から家の方角の空が真っ赤になっているのが見えました。「焼夷弾で家は焼けてしまったかな」と心配して家に帰ってみると、家は焼けておらず、屋根だけでなく家の中にまで銀杏の葉がたくさん落ちていて戦火から守ってくれていました。「銀杏は火が近づくと水を噴くと聞いていたのは本当なんだ」と実感しました。

 今ほど高い建物が無かった昭和30年頃、銀杏の枝ぶりもすごく、ムクドリの集団が羽休めに来て「ギャーギャー」と鳴き声が騒がしく、またフン害にも悩まされました。有名な写真家が撮りにきたりもしました。群れが真っ黒い塊となって飛び立つのが遠くから見えたほどです。樹齢150年以上を経た現在でもビルの谷間で、地域の移り変わりを見守っているようです。