なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第3章【1】(扉)道・街道・道路

鍋屋横丁交差点。手信号と東横バスが中ほどに見えます(中野町誌より)

鍋屋横丁交差点。手信号と東横バスが中ほどに見えます(中野町誌より)

 鍋横地域のほぼ中心を東西に2本の道路が通っています。

 一つは「青梅街道」です。慶長年間に江戸城の改築や寺院の造営に使う石灰を産地の青梅から江戸に運ぶ為に拓かれました。

 当時は近郊農家で江戸市中向けの野菜作りが盛んで、それに使う下肥を江戸の武家屋敷や町屋などから調達していました。そのため街道は人々や荷車の往来が盛んでした。

 その後、大都市化の過程で、また戦争もあり沿道の町はさまざまな変化をとげ、青梅街道も何回かの拡幅により大きくなりました。

 もう一つは「堀之内街道」です。江戸時代後期妙法寺(杉並区)への参詣道として、多くの善男善女でにぎわいました。

 江戸時代の文人太田蜀山人の「堀之内妙法寺記」にその様子が描かれています。明治22年に鉄道が開通し、中野駅からの堀の内新道がつくられ、鍋屋横丁からのこの道は衰退していきました。

 この道の変遷とともに移り変わっていった周辺のようすを昭和初期頃までに遡って聞いてみました。

第2章【10】(4)釣堀の思い出 語り部:秋元雅之助(大正12年生)

昭和23年頃までありました。 双葉山(元横綱)など有名な人も来ていたそうです。

昭和23年頃までありました。 双葉山(元横綱)など有名な人も来ていたそうです。

 小学校4~5年の頃、大変釣好きな叔父が四谷に住んでいて、この辺りに土地を貸していた関係で地代を集めに毎月鍋横に来ていました。その度に私かお供をして、釣堀に案内して行き一緒に釣をしました。

 子どもだったので料金がいくらしたのかは覚えてないですね。

 「夜鳥」に出てくる原っぱには沼地があり、子どもの頃はそこでよく魚釣りをしたり、また神田川の寿橋付近でシジミを採ったりして遊びました。

第2章【10】(3)夜鳥

1,631平方メートの敷地にあった大小3つの池

1,631平方メートの敷地にあった大小3つの池

 作家伊藤整(1905年~1969年)は、昭和5年に中野町新町3838(本町6丁目)で新婚生活を始め、昭和9年千代田町38(本町5丁目)に転居しました。

 「夜鳥」は昭和11年2月に執筆された随筆で、当時の千代田町(本町5 -40番)にあった釣堀のあたりの風景が書かれています。

 「近所に釣堀があって、その西側は茅原でじくじくした沼地であり、更にそのまわりはずっと原っぱになって遠くには川があった。

 原っぱには道が縦横についていた。夜11時頃になるとその釣堀の上あたりの低い空で、げい、という夜鳥の啼き声がした。

 ・・・青鷹か何かだという話であるが、首のあたりに毛の抜けた首の長い鳥らしいだみ声で、釣堀の魚を食いに来るのかとも思われたがが、水音はせず、声はいつも空のかなり低い処でするだけであった」

第2章【10】(2)地下鉄(メトロ)に乗って

 著者は作家浅田次郎で昭和30~40年の鍋屋横丁が登場します。家族の葛藤を抱え、人生にくたびれきった中年サラリーマンが体験するタイムトリップの物語です。

 主人公が地下鉄新中野駅を出ると東京オリンピックの開催の年(1964年)で、当時の鍋屋横丁の様子が「オデヲン座」「角の文房具屋」「杉山公園」等の言葉と共にありありと書かれています。

 

movies.yahoo.co.jp

第2章【10】(1)目白三平随筆集

平成10年まであった椎の木

平成10年まであった椎の木

 屋根から突き出した木について作家中村武志(1909年~1992年)がこの著書の中にこう書いています。「そこには先住者がいた。二人ではなく2本の椎の木たった。

 家を建てるには、椎の木は邪魔である。しかし先往者であり、樹齢55年の大木を伐るのは惜しい。・・・二ヵ月間悩みに悩んだ揚げ句、ついに先往者は家の中に取り込むことにした。

 1本は応接間、もう1本はサンルームの屋根を貫いて枝葉を繁らせることになった。・・・」