第3章【1】(扉)道・街道・道路
鍋横地域のほぼ中心を東西に2本の道路が通っています。
一つは「青梅街道」です。慶長年間に江戸城の改築や寺院の造営に使う石灰を産地の青梅から江戸に運ぶ為に拓かれました。
当時は近郊農家で江戸市中向けの野菜作りが盛んで、それに使う下肥を江戸の武家屋敷や町屋などから調達していました。そのため街道は人々や荷車の往来が盛んでした。
その後、大都市化の過程で、また戦争もあり沿道の町はさまざまな変化をとげ、青梅街道も何回かの拡幅により大きくなりました。
もう一つは「堀之内街道」です。江戸時代後期妙法寺(杉並区)への参詣道として、多くの善男善女でにぎわいました。
江戸時代の文人太田蜀山人の「堀之内妙法寺記」にその様子が描かれています。明治22年に鉄道が開通し、中野駅からの堀の内新道がつくられ、鍋屋横丁からのこの道は衰退していきました。
この道の変遷とともに移り変わっていった周辺のようすを昭和初期頃までに遡って聞いてみました。
第2章【10】(5)伊藤整氏奮闘の生涯
息子の礼が父親の思い出を綴ったもので、青梅街道の夜店に行った事や、赤痢に罹って鍋屋横丁の井口医院で診てもらった事などが書かれています。
第2章【10】(3)夜鳥
作家伊藤整(1905年~1969年)は、昭和5年に中野町新町3838(本町6丁目)で新婚生活を始め、昭和9年に千代田町38(本町5丁目)に転居しました。
「夜鳥」は昭和11年2月に執筆された随筆で、当時の千代田町(本町5 -40番)にあった釣堀のあたりの風景が書かれています。
「近所に釣堀があって、その西側は茅原でじくじくした沼地であり、更にそのまわりはずっと原っぱになって遠くには川があった。
原っぱには道が縦横についていた。夜11時頃になるとその釣堀の上あたりの低い空で、げい、という夜鳥の啼き声がした。
・・・青鷹か何かだという話であるが、首のあたりに毛の抜けた首の長い鳥らしいだみ声で、釣堀の魚を食いに来るのかとも思われたがが、水音はせず、声はいつも空のかなり低い処でするだけであった」
第2章【10】(2)地下鉄(メトロ)に乗って
第2章【10】(1)目白三平随筆集
屋根から突き出した木について作家中村武志(1909年~1992年)がこの著書の中にこう書いています。「そこには先住者がいた。二人ではなく2本の椎の木たった。
家を建てるには、椎の木は邪魔である。しかし先往者であり、樹齢55年の大木を伐るのは惜しい。・・・二ヵ月間悩みに悩んだ揚げ句、ついに先往者は家の中に取り込むことにした。
1本は応接間、もう1本はサンルームの屋根を貫いて枝葉を繁らせることになった。・・・」