2019-02-10から1日間の記事一覧
語り部:石川 久子(大正4年生) 生後まもなくから、ずっと鍋横に住んでいます。父が質屋を営んでおり、子どもの頃、暮れになると正月用の着物を出しに来る人が多かったですよ。 包んであった和紙をたたむのを妹と競争で手伝いました。大晦日は特に忙しく、…
語り部:長谷川まつ江(大正6年生) 昭和25年に現住所に越してきました。周囲は原っぱで、家の前(本町4-19)に芝居小屋がありました。古いけれど立派な建物で、舞台も大きく2階にも客席がありました。 主人の妹が日舞の師匠をしていたので芝居がない時は、…
語り部:百瀬徳蔵(大正14年生) 鍋横市場は現在の鍋横交差点先の「しおのビル」と、その横の駐車場(本町4-1)のところに、昭和40年代までありました。この辺りは戦災を免れたので、戦前からある古い建物でしたね。 ひとつの大きな建物の中に、八百屋、肉屋…
語り部:大極幸子(昭和11年生) 昭和39年から、美容室を始めました。当時鍋横に美容室は2,3軒しかありませんでしたが、今はずいぶん増えてきましたね。皆さんが美容室を利用するのも時代とともに変わり、特に髪型やお正月を迎える様子は今とだいぶ違ってい…
語り部:西田惣一郎(大正6年生) 通称、字鍋屋横丁と言われていた西町1番地(現本町4-38)に生まれ、昭和5年に学校を卒業して本町通り3丁目(現本町3-31)にあった印刷所で働くようになりました。 この頃鍋横交差点そのば日替わりメニューで評判の洋食屋(…
語り部:小川仲子(大正6年生) 実家は、この地で関東大震災・戦争を無事にくぐり抜け、父が昭和33年に亡くなるまで植木屋をやっていました。西町花の公園の前一帯(現本町4-3)に植木場(育成畑)があり、周囲は四つ目垣根で囲まれバラの花が咲き乱れていま…
語り部:栗原武弘(昭和2年生) 昭和12年頃まで、蕎麦粉の製粉所(屋号―河武)を代々家業としておりました。家の東側(本町4-47)に工場と広い蕎麦の干し場があり、いっぱい敷かれた筵上に蕎麦の実を干していたのを覚えています。 それを工場で製粉しますが…
語り部:高野マサ(大正4年生) 昭和16年、宇都宮から鍋横の葛西屋に嫁いできました。本家は瀬戸物屋でしたが、家の奥に製粉所もあり、蕎麦粉を挽いて近辺の蕎麦屋に売っていました。 裏の空き地はそば殻がいっぱいに積まれ、それをまき代わりに使っていまし…
(1)昭和初期の食料品店(2)庭に残る石臼(3)四つ目垣根に囲まれた植木場(4)印刷ひとすじ(5)美容室のお正月風景(6)鍋横市場とせんべい屋さん(7)芝居小屋(8)質屋の利用も気楽に(9)自動車修理も数少なく(10)ラジオは注文を受けてから(11)花…
語り部:西田ヨシ子(大正11年生) 生まれてから現在まで鍋横以外に住んだことがないのです。現自宅の前が実家で、遠縁に当たる主人と結婚し、戦前は西町1番地(現本町4-38)に住んでいました。 昔のまちは敷地の周りをブロック塀などで囲んでなく、家と家の…
語り部:秋元 實(大正14年生) 杉並区との区境に近いこの地で生まれ育ちましたので、和田のあたりは良く覚えているのですが、地域で子どものころの思い出に残る懐かしい場所というと清水窪と呼ばれていたあたりですね。 ちょうど、本郷小に通う道筋で、まる…
語り部:江藤利雄(大正5年生) 先々代が明治時代の中頃「阿波屋」から分家し、現在地(中央3-34)で商売を始めて以来、昭和34年からの地下鉄工事や都電の廃止など、青梅街道の移り変わりを、見たり聞いたりしてきました。 小学生の頃(昭和10年代前半)は比…
語り部:植野國男(大正6生) 青梅街道が昭和4年に拡幅されることになり、米屋をやっていた私の家は道路になるということで立退きとなりました。拡幅前の道幅は10軒位(約18m)だったでしょうか。 真ん中を西武電車が走っていました。雨が降ると道がぬかる…
鍋屋横丁交差点。手信号と東横バスが中ほどに見えます(中野町誌より) 鍋横地域のほぼ中心を東西に2本の道路が通っています。 一つは「青梅街道」です。慶長年間に江戸城の改築や寺院の造営に使う石灰を産地の青梅から江戸に運ぶ為に拓かれました。 当時は…
息子の礼が父親の思い出を綴ったもので、青梅街道の夜店に行った事や、赤痢に罹って鍋屋横丁の井口医院で診てもらった事などが書かれています。
昭和23年頃までありました。 双葉山(元横綱)など有名な人も来ていたそうです。 小学校4~5年の頃、大変釣好きな叔父が四谷に住んでいて、この辺りに土地を貸していた関係で地代を集めに毎月鍋横に来ていました。その度に私かお供をして、釣堀に案内して行…
1,631平方メートの敷地にあった大小3つの池 作家伊藤整(1905年~1969年)は、昭和5年に中野町新町3838(本町6丁目)で新婚生活を始め、昭和9年に千代田町38(本町5丁目)に転居しました。 「夜鳥」は昭和11年2月に執筆された随筆で、当時の千代田町(本町5 …
著者は作家浅田次郎で昭和30~40年の鍋屋横丁が登場します。家族の葛藤を抱え、人生にくたびれきった中年サラリーマンが体験するタイムトリップの物語です。 主人公が地下鉄新中野駅を出ると東京オリンピックの開催の年(1964年)で、当時の鍋屋横丁の様子が…
平成10年まであった椎の木 屋根から突き出した木について作家中村武志(1909年~1992年)がこの著書の中にこう書いています。「そこには先住者がいた。二人ではなく2本の椎の木たった。 家を建てるには、椎の木は邪魔である。しかし先往者であり、樹齢55年の…
(1) 目白三平随筆集(2) 地下鉄に乗って(3) 夜鳥(4) 釣堀の思い出(5) 伊藤整氏奮闘の生涯
慈眼寺の石仏群 境内には青梅街道の沿道にあったものなどを移設し、安置した石仏が多数あります。馬頭観音は頭上に馬頭をつけ、角柱部分は道しるべになっています。 左あふめ道(青梅)、右いくさ道(井草)、と記されていて元は青梅街道と石神井道との分岐…
地図 この道は、かつては青梅街道から本郷氷川神社までの参詣道でした。昭和10年に中野新橋通りが青梅街道に直結してから、人通り少なくなりましたね。 鍋屋の横田家とは親戚筋にあたり、鍋の一字と義父の横田捨五郎の捨と組み合わせて鍋捨の屋号としたそう…
本郷氷川神社 新しい鳥居(平成10年5月建立)をくぐると境内に、奉納天保4年(1833年)と書かれた狛犬が対に置かれています。 一方はお乳を飲ませている狛犬で、もう一方は子守をするかのように子の背中に足をかけています。 狛犬は中国・朝鮮を経て渡来した…
寺社については、建立時期やいわれなどを平成6年に発行した冊子でまとめましたが、その後の調査で新たにいろいろなことが分かりました。
語り部:肥後正子(大正15年生) 私か子どもの頃の鍋横は原っぱが多くて、あっちこっちで盆踊りや草相撲等をやったりしてました。 鍋横の交差点のあたり(中央4‐1)も原っぱが多かったけど、そこに「オデヲン座」という映画館があって、たしか最初は「ロマン…
昭和初期の中野館 中野警察から杉山公園寄りに城西館があり、松竹下加茂や大船の映画を上映していました。 「雪之丞」の林長二郎、「愛染かつら」の田中絹代、桑野通子、森川まさみ、「浅草の灯」の高峰三枝子、時代劇の坂東好太郎、高田浩吉、川浪良太郎と…
テレビが普及する前の娯楽に映画があげられます。戦前、戦後にかけて鍋横には中野館、城西館、オデヲン座、タカラ館などの映画館があり、大勢の人々に親しまれていました。
語り部:大江久也(昭和5年生) 昭和6年に私の父がこの地にあった銭湯を引き継いで開業しました。現在は息子が継いでいますが、父子三代は中野でも珍しいと言われます。 幸運にも戦災に会わなかったので、はるか遠くから子ども連れで入りに来ましたね。戦時…
語り部:須山千代子(大正3年生) 主人の実家は、昭和の初め頃まで桃園町(中野駅の南口の五差路付近)で牧場をやっておりました。私は結婚後、しばらくそこで生活していましたが、戦後現在の地に移り牛乳屋を開いて50年位になります。 現在は、紙パックの牛…
語り部:深沢平八(大正9年生) 私の両親は中央3丁目あたりで、さつまいもなどの卸商をしていました。田無や小金井方面の農家の方が人力車や牛車でさつまいもを運んできていたようです。当時は焼きいもや大学いもが庶民 の一般的なおやつでしたが、大正時代…