なべよこ観察隊「鍋横物語ー見たい 聞きたい 記録したい」中野区・鍋屋横丁

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

第3章【2】(2)庭に残る石臼 語り部:栗原武弘(昭和2年生)

語り部:栗原武弘(昭和2年生)

語り部:栗原武弘(昭和2年生)

 昭和12年頃まで、蕎麦粉の製粉所(屋号―河武)を代々家業としておりました。家の東側(本町4-47)に工場と広い蕎麦の干し場があり、いっぱい敷かれた筵上に蕎麦の実を干していたのを覚えています。

 それを工場で製粉しますが、石臼がたくさん並んでいて電気で動かしていました。当時、使っていた大(直径55cm)小(36cm)の石臼は、今でも庭に敷いて残してあります。出来上がった蕎麦粉は「日本一桃太郎印」の名で蕎麦屋さんに卸していました。

 曽父祖が中野銀行の設立者のひとりだったことで、祖父が触発されて世の役に立つ事業をと思い、昭和4年、現在の「新中野駅前郵便局」を始めました。

 以来父、私と三代にわたり局長をつとめてきました。当初は「中野新町郵便局」といって、青梅街道の北側の現・構造計画研究所(中央4-5)のところにありましたが、昭和6年、青梅街道の拡幅により南側に当たる現在地に移転しました。

 戦火を免れて、昭和42年の住居表示の改正まで「中野本町通5郵便局」の名で地域の人たちに利用されてきました。郵便局の名前も時代とともにいろいろと変わってきたのですね。

庭に敷きつめられた石臼

庭に敷きつめられた石臼

 

 

第3章【2】(1)昭和初期の食料品店 語り部:高野マサ(大正4年生)

語り部:高野マサ(大正4年生)

語り部:高野マサ(大正4年生)

 昭和16年、宇都宮から鍋横の葛西屋に嫁いできました。本家は瀬戸物屋でしたが、家の奥に製粉所もあり、蕎麦粉を挽いて近辺の蕎麦屋に売っていました。

 裏の空き地はそば殻がいっぱいに積まれ、それをまき代わりに使っていました。すごく暖かかったのを覚えています。私の家は分家の乾物屋(現スーパーコーノ)だったからでしょうか、旧本町通り4丁目町会の配給所となりました。

 主人が徴兵に行き、後を母とふたりで朝くから店に並んで配給を取りに来るお客さんのために砂糖や油を一日中、計り続けたものです。

 

イラスト

イラスト

 なにしろ物がない時代ですから、砂糖など外に置くと、すぐさま袋ごと無くなったりしましたね。配給の品物は砂糖、米、卵、魚、薬とかいろいろ扱っていて、中でも一番喜ばれたのはチョコレートでした。大人気で分けるのに大変苦労しましたね。

 青梅街道の北側はみんな強制疎開となり、店はNTT近辺にあった鍋横市場で開くことになりました。その後、当初の道路向かいに移りました。

 北向きなので冬など北風が吹くと非常に寒かった思い出があります。現在の場所に戻ったのは、昭和26年頃です。

 今では鍋屋横丁で通じますが、当時は“鍋屋横丁前”と言いなさいと父によく注意されましたね。

第3章【2】(扉)商いを通して見た街

(1)昭和初期の食料品店
(2)庭に残る石臼
(3)四つ目垣根に囲まれた植木場
(4)印刷ひとすじ
(5)美容室のお正月風景
(6)鍋横市場とせんべい屋さん
(7)芝居小屋
(8)質屋の利用も気楽に
(9)自動車修理も数少なく
(10)ラジオは注文を受けてから
(11)花に囲まれて幸せ

 

第3章【1】(4)近道は路地を抜けて 語り部:西田ヨシ子(大正11年生)

語り部:西田ヨシ子(大正11年生)

語り部:西田ヨシ子(大正11年生)

 生まれてから現在まで鍋横以外に住んだことがないのです。現自宅の前が実家で、遠縁に当たる主人と結婚し、戦前は西町1番地(現本町4-38)に住んでいました。

 昔のまちは敷地の周りをブロック塀などで囲んでなく、家と家の間に細い路地がたくさんありました。よく利用したのは図のような所にあった路地です。

 路地もいつの間にかなくなり、高層マンションも建ち並び、周りもすっかり変わってしまいましたが、生まれた時から変わらずにある西片邸の横を通るとホットします。

 

地図

地図

 

第3章【1】(3)清水窪 語り部:秋元 實(大正14年生)

語り部:秋元 實(大正14年生)

語り部:秋元 實(大正14年生)

 杉並区との区境に近いこの地で生まれ育ちましたので、和田のあたりは良く覚えているのですが、地域で子どものころの思い出に残る懐かしい場所というと清水窪と呼ばれていたあたりですね。

 ちょうど、本郷小に通う道筋で、まるでオバケが出そうなくらい薄暗くて。じゃり道だったしヘビがうろちょろいっぱいいてね。

 雑木林があったので昼寝をしたり崖を登ったり滑り降りたりして、子どもの遊び場としては最高に楽しい場所でした。

 たしか戦時中にかなり大きな防火用の貯水池がありました。(現在は40立方メートルの防火水槽があります)

 中学校時代は青梅街道を走っていた西武電車で通学していました。乗客が満員だと駅に止まらず通過していくことも度々ありました。のんびりしていた時代ですね。当時(昭和12年頃)100枚つづりの回数券が2円でした。

 定期券などない時代で、この回数券が重宝しました。

地図にある沼(大正の頃)

地図にある沼(大正の頃)

地図

地図

 

第3章【1】(2)鍋横交差点の角から 語り部:江藤利雄(大正5年生)

語り部:江藤利雄(大正5年生)

語り部:江藤利雄(大正5年生)

 先々代が明治時代の中頃「阿波屋」から分家し、現在地(中央3-34)で商売を始めて以来、昭和34年からの地下鉄工事や都電の廃止など、青梅街道の移り変わりを、見たり聞いたりしてきました。

 小学生の頃(昭和10年代前半)は比較的国内が安定していて、鍋横は中野銀座と呼ばれるほどに賑やかでした。

 商店の種類も多く、歩くだけでも楽しかったです。特に鍋横交差点の四つ角は、しゃれた「東京パン」デパートのような「阿波屋呉服店」ガラス食器が並ぶ洋食器屋と、うちの文房具店があり、文化的な雰囲気を醸し出していたように思います。

 地下鉄「新中野駅」は、当初、杉山公園の下(駅名は南中野)に作る予定でしたが、商店会長だった父親が、鍋横の繁栄のため、駅を商店街側にもってきて駅名も「鍋屋横丁」にしようと誘致に奔走した結果、時の運輸大臣河野一郎の裁定で、現在の位置、駅名に決定したと聞いています。

 両方の綱引きのせいかどうか、当初、駅の方向案内板に「鍋屋横丁」といれてもらえず地域で張り紙をしたりしたものです。

 昭和37年2月に開通の式典が行われ、その様子が作家浅田次郎の「メトロ地下鉄に乗って」に描写されています。

 

第3章【1】(1)拡幅前後の青梅街道 語り部:植野國男(大正6生)

語り部:植野國男(大正6生)

語り部:植野國男(大正6生)

 青梅街道が昭和4年に拡幅されることになり、米屋をやっていた私の家は道路になるということで立退きとなりました。拡幅前の道幅は10軒位(約18m)だったでしょうか。

 真ん中を西武電車が走っていました。雨が降ると道がぬかるみ自動車が通ると大変で、跳ね上がった泥が家の中まで入ってくるのを店の前に戸板を立て泥除けにしました。

 また淀橋のやっちゃ場(青物市場)に野菜を積んで行く馬車が何十台も通るので、道いっぱい馬糞だらけになってしまい、その片付けもっぱら子どもたちの仕事でした。

 拡幅後に道が整備されて歩道ができると、道を挟んで土・日ごとに交代でどちらか一方の側に夜店が出るようになりました。

 バナナの叩き売りセルロイドのおもちゃ、着物の反物などを売る店が連なり、両端は必ず植木屋でお店全体の3分の1ほどありました。夜になると灯りに使うアセチレンガスの独特の臭いが漂っていたのが忘れられませんね。

 米屋は戦時中に配給制となり、私が戦後復員してきた頃には、継げなかったのです。海軍で電気関係についていたので電気店を始めました。当時主流の品物から店名を光(電球)、音(ラジオ)堂と名づけました。