2019-01-28から1日間の記事一覧
田口ぎん・談 「大正時代から昭和10年代にかけて、安田財閥の女婿安田善次郎さんの邸がありました。その後、満鉄総裁、林博太郎氏が渋谷区幡ヶ谷本町で戦災に遭い、移って来られました。戦災に遭った方が身を寄せていらしたようで、牧野仲顕伯爵、有馬頼寧氏…
昭和50年12月、中野区が株式会社日鉄工業から買収してつくられました。現在、鍋横地域にある9公園のうち最も面積が大きく(2,695.20平方メートル)、樹木が多く閑静な庭園といった趣の公園です。 地元の行事のほかゲートボールの練習などに利用されています…
かなり広く、青梅街道と中野通りが交わった一角にある地の利と、東・南・西に高い建物がないため、一日中天気の良い日は陽が差している好条件から、現在、地域で最もよく利用され、親しまれている公園です。その成り立ちを、中野区が園内に建てた碑文の全文…
青梅街道沿いには、商家が軒を連ね賑わい、関東大震災後、この地域では東京市中から人が移り住み人家が増えたそうですが、昭和の初め頃でも街道から一歩中に入れば原っぱがあり、本郷台から神田川にかけて春は一面のれんげ畑だったそうです。 そんな風景の中…
神田川は和田堀のところを迂回していて、今より川の幅は広かったわね。今の地下鉄の車庫の辺りは、ヘビの抜け殻がいっぱいあったわ。 小学生の時、春写生するので画板さげて、ここに来ると家なんてなくて。ただ、今の本郷保育園の上の辺りに奥田教授っていう…
昭和26年に完成した木の栄橋 昔の神田川の様子が偲ばれます きれいな水には、たなごや鮒のほか、うなぎ、なまずなど、今では想像できないような魚が棲んでいました。また、きれいな川の水を利用した染色業が盛んでした。染めた布に残る余分な染料を落とす…
川の深さは、背の立たないところもあったけれど、平均したら1m位の深さでしたね。それぐらいの深さでしたから子どもたちが遊ぶにはもってこいでしたよ。 大正の末頃まで田んぼに蛍が沢山いて、十貫坂下にかけても沢山いましたね.
今の子は何でもあるけれど、その頃は何もありゃしませんよ。だから、野生の物を採って食べるんです。神田川沿いにグミ採りとか。渋くて口の中が真っ赤になるんで川の水で口を洗ったりしましたよ。 トーナスのうらなりを茄でて食べるとかね。 それから瓜を生…
江戸初期、徳川家康は大久保藤五郎忠行に江戸市民の飲料水として、上水を造るように命じました。水源を武蔵野の井の頭池にとって拓かれたのがこの神田川で、慶長19年(1614年)に開通しました。当時の川幅は4~9mあり、ところどころで分流され水田を濯漑し…
後ろに西町天神の大いちょうが見えます 鍋横地域の足の便のよさは格別、地下鉄丸の内線をはじめ、都や京王のバスで合計7つのルートがあり、まさに四通八達の交通機関に恵まれています。渋63、宿45、中82、中81、中71、王78、宿91などのバスルートを下の地図…
杉並方面から中野通りへ向けて 十貫坂上交差点から入っていく一方通行の坂です。「名前の由来には、農家の野菜を大量に積んだ大八車が、十貫目を超えると坂が急なために登れなかったことから、中野長者が使用人を使って十貫のお金を埋め、秘密保持のためその…
妙法寺への道標(お題目石) 杉並区にある妙法寺は、元禄5年(1692年)に目黒区碑文谷の法華寺から目蓮上人の木像を移して以来、厄除けに霊験があるとして参詣する人が増えました。江戸時代中頃、鍋屋のあった辺りで青梅街道から分岐する参詣道が新たに作ら…
《明治末期から大正にかけて》 唐沢政次郎・談 あたしの子どもの頃は、青梅街道沿いに新宿から今の新中野郵便局までずつと一列に家はあったんです。ほとんど商家でした。 それから先はずっと畑でね。家の後ろは九尺二間で長屋があるだけであとは全部畑。挑園…
「堀之内妙法寺記」より 江戸五街道の一つ、甲州街道の脇道であり、慶長年間(徳川家康が江戸幕府を開いたのは慶長8年-1603年)、江戸の城郭や寺院の造営に使う石灰を、産地の成水、小木曽地区(青梅の北)から江戸に運ぶために拓かれました。はじめ御白土…
地域を通る大きな道路というと、青梅街道、中野通り、三味線橋通り、消防署通りがまず思い浮かびます。いずれも車の交通量が多く、バスの路線にもなっています。 ところが、少し昔の地図には中野通りにあたる道は辿(たど)れません。 一方、道幅も狭く、人の…