なべよこ観察隊|鍋横物語 見たい 聞きたい 記録したい|東京都中野区

なべよこ観察隊は、鍋横地域協議会の課題別部会である地域センター部会の中の専門部として活動しています。メンバーの多くは青少年の育成活動、町会、PTAなどの地域活動を通して、この活動に興味をもった人たちです。日常の生活の中で、目についた地域の様子、興味を感じたまちの様子をそれぞれ出し合い、実際にまちを歩いて観察しました。

2019-02-10から1日間の記事一覧

第2章【7】(1)こんなお店知ってる?

古くから地域に住む人たちの記憶によって作られた大正末期頃の地図を見ると、現在では聞き馴れないお店が出てきます。どんな内容か調べてみました。 【紺や】 藍染めをする染め物やのことをいう。 当時は半纏や股引きなどを紺色に染めるのが多かった。 【拝…

第2章【7】(扉)いろいろな商売

(1)こんなお店知ってる?(2)お米屋さん(3)牛乳屋さん(4)お風呂屋さん

第2章【6】(2)描かれた洋館

新日本製鐵社宅の場所(本町6‐2、杉並区和田1‐58)は元、安田公爵のお屋敷がありました。杉木立に囲まれた十貫坂の高台に見える洋館はとてもすてきだったと当時を知る人から伺いました。 和田1丁目に住んでいた洋画家の木村荘八(1893年~1958年)がその洋館…

第2章【6】(1)長く住み続けて 語り部:西片秋子(大正7年生)

この家は高橋ルイゼさんというドイツ人の方から義父が譲り受けた、大正10年に建てられた洋館です。 当時でもこの辺りには洋館が数件あり、特に安田さんのお家(現新日鉄社宅)は大きく立派で、屋根の形が印象的でした。 私は終戦後の昭和21年に北京から引き…

第2章【6】(扉)洋館

大正末期から昭和の始め頃、地域には洋館が何軒かありました。建て替えなどで大部分は消えていってしまいましたが、当時でもめすらしい建物は、人々の思い出に残っています。

第2章【5】(4)夏は蛍が・・・ 語り部:唐沢政次郎(明治33年生)

本郷小の記章 蛍なんていたもなにも夏になると田んぼのうえにザーッとでしたよ。さかんに蛍とってね。学年で6年と5年かな。籠に蛍を入れて、二重橋までもっていって放したんですよ。毎年、行事だったんです、あたしの小学校時分のね。本郷小の記章も蛍でしょ…

第2章【5】(3)千代田町会の由来 語り部:安藤幸好(大正6年生)

千代田町会の南側を流れている神田川は、その昔、夏になるとホタルがたくさん飛び交い、それを若者たちが捕まえては千代田の皇居に行って放していました。町名を付けるとき、その若者たちが町の重鎮となっており、昔の思い出から千代田と名付けたと聞いてい…

第2章【5】(2)畑は一面ピンク色 語り部:上村りん(大正6年生)

昭和26年頃の神田川の様子 川の周りにあった田んぼは、春になると一面れんげ草の花でピンクに染まります。その花を摘んでは、冠や花飾りを作って遊びました。とにかくホタルはたくさんいましたね。川に電気コードを入れてウナギを電気ショックで捕まえたりし…

第2章【5】(1)神田川はふるさと 語り部:清水吉右ヱ門(大正5年生)

語り部:清水吉右ヱ門(大正5年生) 私は生まれてから現在の地に暮らしています。子どものころは学校から帰るとカバンを放りだして、木登りやベーゴマをしたり、神田川で泳いだりと、今のようにたくさん遊び道具があったわけではありませんが退屈はしません…

第2章【5】(扉)神田川

江戸初期に江戸市民の飲料水を確保するために、徳川家康は大久保藤五郎忠行に上水道を造るよう命じ、水源を井の頭池にとって、慶長19年(1614年)に開通しました。

第2章【4】(3)何事にもおおらか 語り部:安藤幸好(大正6年生)

語り部:安藤幸好(大正6年生) 私かこの付近に住み始めたのは4~5歳の頃で、現在中野通り(戦時中に強制疎開によって出来ました)になっている所に4軒長屋があって、そこで親父が煮豆屋の商売を始めたときですから、75年になりますね。 この頃はまだ商店も…

第2章【4】(2)十貫坂の地名が本の中に登場

十貫坂の地名が本の中に登場 ■ 丸谷才一著「低空飛行」の中に『ぼくの仕事部屋から首を出すと、ちょうど真下に中野十貫坂というゆるやかな坂が見える』とあり、氏は昭和42年頃から数年、十貫坂に面したマンションに住んでいたということです。また、「男のポ…

第2章【4】(1)十貫坂の由来

十貫坂の由来 大量に積んだ大八車が十貫目(39kg)を超えると坂が登れなかったからだとか、中野長者の埋めた銭十貫文を掘り出したので坂の名になったなどいくつか説があります。

第2章【4】(扉)十貫坂周辺

(1)十貫坂の由来(2)十貫坂の地名が本の中に登場(3)何事にもおおらか

第2章【3】(2)雑木林は遊び場 語り部:高野広國(大正8年生)・高野セッ子(大正9年生)

◆ 私は、昭和6年に鍋横の追分に、家内は昭和7年に鍋横商店街の近くに越して来ました。うちは花屋だったので、この辺りのお屋敷にはよく配達に行かされました。現在の所に店を出したのは結婚してからですが、家の前にある東京文化幼稚園や和田保育園の辺りは…

第2章【3】(1)しがらき山の一本松 語り部:中村せい(明治39年生)

語り部:中村せい(明治39年生) しがらき山の一本松は、堀之内街道沿いにあって、大きく枝を広げて日差しを遮っているためか、木の下はいつもジメジメしていたのを覚えています。 一本松の下の方は谷底のようになっていて、降りていくと清水が湧き、荒れ果…

第2章【3】(扉)堀之内街道沿い

江戸時代、文政年間(1818~1829年)に堀の内の妙法寺への参詣道として栄えた道で、当時は茶店がたくさんあり、途中に「しがらき茶屋」という大きな料理屋が明治末期頃まであったそうです。

第2章【2】(3)文字の解読

1世紀頃から漢字が伝えられましたが、日本語と構造上の違いなどから、その用い方にいろいろの工夫がされたり、日本文を現すのに漢字だけでは対応できないため、漢字を仮名に簡略化して用いるようになりました。その過程で原字からは想像もできない平仮名を…

第2章【2】(2)距離のなぞ

距離のなぞ ②の道標には正面に南無妙法蓮華経/左側面には是より右“りの内 ”と書かれ、右側面には妙法寺江十八六丁半と刻まれています。 これを「十八丁六間半」(約1974m)と読むと、①の道標との差は3.5間(約6m)となります。 しかし、現在の①と②の距離は…

第2章【2】(1)道標の裏に「鍋屋」の証し!

道標の裏に「鍋屋」の証し 鍋屋横丁の由来は江戸時代中期から明治時代初めにかけて、ひときわ繁盛した茶店の名前「鍋屋」からきています。鍋屋は美味しい草餅と美しい梅林が有名で、妙法寺へ参詣する人々の楽しみだったそうです。現在、鍋屋の名残は地名以外…

第2章【2】(扉)道標のミステリー

地図 かつてこの辺りが妙法寺の参詣道だったことを示す道標が2ヵ所にあります。(地図参照) ①は、明治11年(1878年)に建立され、②は、享保3年(1718年)に建立されています。そこに刻まれている文字を解釈してみました。

第2章【1】(5)東横バスの名残 語り部:飯塚良司(昭和8年生)

ターンテーブルがあった建物は昭和6年頃の建築で、現在は喫茶店になっています。 戦後、バスが大型化され狭くなって入りきれなくなって廃止されたそうですが、当時の機械がそのまま店内の床下に残っています。 昭和21年に店舗に改造して、東横バスの名前をと…

第2章【1】(4)ターンテーブル(転車台) 語り部:江藤春雄(大正13年生)

語り部:江藤春雄(大正13年生) 記憶によると東横バスが鍋横通りを走っていたのは、昭和20年の頃までと思います。 当時の道幅は現在よりもずっと狭く、バスがやっと通れる位でした。そのためバスが方向を換えるためのターンテーブル(私は「ロータリー」と…

第2章【1】(3)鍋横始発の東横のバス

戦前、鍋横から大宮八幡まで乗合バスが走っていました。 鍋屋横丁(本町4‐30)に東横バスの発着所かありましたが、昭和10年頃の鍋横通りは道幅が狭く、バスがUターンできないので方向転換するために発着所の建物内にターンテーブル(転車台)を設置していま…

第2章【1】(2)兄ちゃんと通った路 語り部:朝倉春江(昭和2年生)

語り部:朝倉春江(昭和2年生) 小学校3年生の頃、宮里37番地(本町4 -24)に引っ越しましたが、それまで通っていた谷戸小学校に2歳年上の「兄ちゃん」といっしょに通学していました。 通学には青梅街道を通っていきましたが、鍋横交差点近くの「野々山パン屋…

第2章【1】(1)昭和初期の洋食屋 語り部:小倉一祐(明治41年生)

語り部:小倉一祐(明治41年生) 私が鍋横交差点近くに洋食レストランを開いたのは昭和3年、20歳のときです。当時、中野駅北口一帯に陸軍の電信隊があったのですが、駅周辺には旅館が2軒あるだけで、中野の中心といえば鍋横から宝仙寺周辺だったんです。 休…

第2章【1】(扉)青梅街道界隈

慶長年間に江戸の城郭や寺院の造営に使う石灰を産地の成木、小木曽地区(青梅の北)から江戸に運ぶために拓かれて以来、何回かの拡幅を重ね、現在のような幹線道路となりました。 江戸中期から堀之内妙法寺への参詣が盛んになるにつれ、この街道沿いも発展し…